記憶の空白

心理ホラー |2026.06.11

最初の異変に気づいたのは、四月の終わりだった。

目を覚ますと、そこは自宅のベッドではなかった。見慣れない天井、無機質な白い壁。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋のほこりをきらめかせている。一瞬で全身が総毛立ち、飛び起きた。ビジネスホテルだった。ネームプレートに「東新宿駅前ビジネスイン」とある。スマートフォンを確認する。午前七時十四分。日付は変わっていない。昨日の記憶はある。仕事を終え、電車に乗り、最寄り駅で降りて、家まで歩いた——はずだ。

「——どうやってここに?」

声に出して呟いてみたが、答えは返ってこない。フロントに問い合わせると、昨夜二十一時に「私」が一人でチェックインしていた記録があった。カードキーも私の財布に入っていた。自宅の最寄り駅とはまったく逆方向のホテルだ。なぜこんなところに来たのか、まるで覚えていない。

その日は有給を取って、とりあえず心療内科に行った。担当医の佐藤先生は、親身に話を聞いてくれた。

「——解離性健忘の可能性もありますね。強いストレスが引き金になることがあります。まずは様子を見ましょう。もしまた同じようなことがあったら、日記をつけてください」

そう言われて、素直に頷いた。だが——その「また」が、想像以上に早く訪れた。

一週間後、私は自宅のキッチンで目を覚ました。ガスレンジの火がついたままになっていて、鍋の中の水は完全に蒸発し、底が真っ黒に焦げていた。もしあと三十分遅く起きていたら——そう思うと背筋が凍った。前後の記憶は途切れている。ただ、冷蔵庫のメモ用紙に、自分の文字でこう書かれていた。「焦げ臭くなったら起こして。私がやったことだから」。私が書いたのに、「私」ではない誰かが書いたような違和感。自分自身の筆跡なのに、知らない人の文字のように見えた。

それからの日々は、悪夢の連続だった。

目を覚ますたびに、世界が少しずつずれていく。冷蔵庫の中の食材の配置が変わっている。本棚の本の順番が入れ替わっている。スマートフォンの検索履歴に、見たことのないサイトが残っている——「睡眠薬 過剰摂取 致死量」「電車 飛び込み 確実な方法」。自分のスマートフォンからそんな履歴が出てくるということが、何より恐ろしかった。心当たりは一切ない。しかし指紋は私のものだ。ログイン履歴も私のアカウントだ。つまり——眠っている間の「私」が、これらのワードを検索したということだ。

誰かに操作されている——最初はそう考えた。スマートフォンにスパイウェアが仕掛けられているのかもしれない。パソコンを初期化し、財布の中身を写真に撮り、自室に防犯カメラを設置した。カメラは就寝前に毎晩起動するように設定し、朝になると録画を確認する——。

初日の映像は、何も異常がなかった。午前零時過ぎに就寝し、朝までまったく動かなかった。しかし二日目の朝、目を覚ますと左手の甲に小さな切り傷があった。カメラを確認する。映像には、深夜二時十四分——私がゆっくりと起き上がり、無表情で台所に向かう姿が映っていた。まるで操り人形のようにぎこちない動きで包丁を取り出し、自分の手の甲を浅く切った。そしてその傷口を、じっと見つめていた。まるで——痛みを「確認」するかのように。その間、顔には一切の表情がない。目は開いているのに、そこに「私」はいない。

映像の「私」は、傷口をティッシュで押さえると、何事もなかったかのように布団に戻り、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。その一連の動作の滑らかさと無頓着さが、背筋を凍らせた。私はその映像を何度も見返した。そして一つの確信に至った。

これは夢遊病ではない。私の知らない「何か」が、私の身体を借りて活動しているのだ。

夜が怖くなった。眠ることが怖くなった。目を閉じれば、次に目を開けたときには自分が何をしているのか分からない。眠っている間に、私の知らない「私」が何か恐ろしいことをするかもしれない。

睡眠薬をやめた。カフェインを断った。寝る前には必ず三回鍵を確認した。しかし、それでも眠りは訪れる。人間は必ず眠る。その事実が、何より恐怖だった。

三週間後。久しぶりに実家に電話した。母の声が聞きたかった。しかし——。

「あら、恭子。どうしたの、そんな改まって。昨日も電話くれたじゃない」

「——昨日?」

「そうよ。『元気にしてる?』って。変なこと訊くから、『元気よ』って答えたら、『そっか、よかった』って。いつもより優しい口調だったから、珍しいなと思ったのよ」

電話を切ったあと、しばらく呆然とした。私は昨日、母に電話した記憶がない。しかしスマートフォンの通話履歴には確かに、実家の番号へ五分間の通話記録が残っていた。母の話では、私はいつになく優しく、まるで別れの挨拶をするような口調だったという。「何かあったの?」と訊かれても、「大丈夫」とだけ答えたらしい。

私はその日のうちに心療内科を変えた。セカンドオピニオンが欲しかった。新しい医師——田所先生は、私の話を一通り聞いたあと、こう言った。

「おそらくは解離性同一性障害、いわゆる多重人格の可能性があります。あなたの中で、あなたの知らない別の人格が活動しているんです」

「でも——私、小児期の虐待なんて受けたことありません。大きなトラウマもない。どうしてそんなものが?」

「原因は必ずしも明確ではありません。ただ、一つ気になるのは——あなたの"空白の時間"に、明確な目的があるように見えることです。単なる記憶障害ではなく、何らかの意図を持って行動している」

その指摘は、かえって恐怖を深めた。私の中にいる「もう一人の私」には、私の知らない目的がある。それはつまり——私の知らないうちに、私の人生が誰か他の誰かによって生きられているということだ。

田所先生は「もう一人の私」との対話を試みようとした。催眠療法のようなものだと言う。私は承諾した。そして——。

催眠の中で、私は自分自身と話した。

「——君は誰なんだ?」

返ってきた声は、確かに私自身の声だった。しかしその口調は、私の知っている自分の話し方ではなかった。もっと冷たく、諦めにも似た静かな響きを帯びていた。

「私はあなた。でもあなたは私じゃない」

「どういう意味だ?」

「あなたは気づいていないだけ。本当は気づいているのに、見ないふりをしている」

「何を?」

「あなたはもう——」

そこで意識が途切れた。目を覚ますと、田所先生が青ざめた顔で私を見ていた。

「——先生?」

「……あなたは、自分が誰だと思っていますか?」

不思議な質問だった。私はもちろん、私だ。

「端的に言います。催眠状態で現れた人格は、自分こそが『本当のあなた』だと言いました。そして、今のあなたは——」

彼は言葉を濁した。

「——彼女が作り出した、偽りの人格なのだと」

その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

「……つまり、私の方が、解離性同一性障害によって生み出された『別人格』だって言うんですか?」

「彼女はそう主張しています。そして——彼女が言うには、『あなたは知ってはいけないことを知ってしまった。だから私が代わりに生きることにした』と」

何の話だ。私は何も知らない。何も——。

——いや、待て。

思い出してはいけないことがある。そう直感が警鐘を鳴らす。記憶の奥底に、蓋をされた箱がある。開けてはいけない。開ければすべてが崩れる。そう教えているのは——自分自身だ。

その日から、私は「もう一人の私」の痕跡を積極的に探すのをやめた。代わりに、自分が「知ってはいけないこと」を必死に思い出そうとした。断片的なイメージが、夢の中に浮かんでくる。雨の夜。アスファルトに散る赤いもの。割れた携帯電話の画面。そして——意識を失う直前、確かに聞いた声。

——ごめん。私がやった。

その記憶の断片に触れた瞬間、全身が震え、激しい頭痛に襲われた。トイレに駆け込んで吐いた。思い出してはいけない——そう自分自身が自分に言い聞かせているのだと、はっきりと理解した。

「もう一人の私」は、私を守っているのではない。私を——閉じ込めているのだ。ある真実から目を逸らさせるために。彼女は私を「表面」に押し出し、自身は深層に隠れて、私が決して真実に辿り着かないように操作している。

なぜなら——たぶん、その真実を知ったら、私はもう「私」ではいられないからだ。

今もノートにこの文章を書きながら、手が震えている。自分が誰なのか、もう分からない。もしかしたら私は、もうとっくに——。

しかし今夜も、眠りが訪れる。目を閉じれば、また「私ではない私」が動き出す。彼女はおそらく、ノートを読んでいる。この文章を。そしてそっと、私の記憶をまた一つ、消し去るのだ。

あなたがこの物語を読んでいる今も——私の中の「もう一人」が、目を覚まそうとしている。

広告

📚 心に残るホラーをお探しの方に — Amazonで心理ホラー小説を探す

© 2026 夜ノ怪談