七月の終わり、五年ぶりに故郷へ帰った。三十歳を目前にした東京での暮らしは、思っていたよりもずっと人間を削るもので、有給を取って盆休みに合わせた帰省は、言ってしまえば逃避だった。
田舎の駅に降り立つと、むっとするような熱気が全身を包んだ。アスファルトに沁みついた夏の匂い——蝉の声、線香の香り、湿った風。全てが「懐かしい」と「異質」のあいだを行き来していた。五年という歳月は、記憶の中の故郷を少しだけ美化していたらしい。
実家に着くと、母が用意してくれた冷たい麦茶がやけに美味かった。仏壇に手を合わせ、父の墓参りを済ませた。
「今夜は盆踊りがあるよ。行っておいで」
母の言葉に曖昧に頷きながら、私は縁側に座ってぼうっと庭を眺めていた。柔らかな橙色の夕日が蝉の抜け殻を照らしている。あの頃は、この庭で毎日のように遊んでいた。弟と、そして——。
そして、その記憶は無意識に遮断された。
夜になるのを待って、私は浴衣に着替えた。どうせすることもない。盆踊り会場の神社までぶらぶら歩くことにする。商店街の街灯は相変わらず少なく、民家の玄関先に吊るされた提灯の灯りだけが道を照らしていた。風鈴の音。どこからか流れてくる演歌。日本の夏だ。
神社の境内に近づくにつれ、太鼓の音が大きくなってくる。しかし、その音とは別のものに、私は足を止めた。
——光っていた。
神社へ続く参道の脇、暗がりの藪の中で、いくつもの淡い光が浮かんでは消えていた。蛍だ。七月の終わりならまだ見頃なのも頷ける。私は無意識に歩みを藪の方へ向けていた。
蛍の光を追うなんて、子どもの頃以来だ。スマートフォンのライトを消し、目を凝らす。五匹、いや、十匹以上はいる。彼らはゆっくりと藪の奥へ、さらに奥へと誘うように飛んでいく。
「——こっちだよ」
聞こえた気がした。子どもの声だった。背筋が冷えたが、それ以上に強い引力が胸の奥で芽生えた。足が勝手に動く。
藪をかき分け、細い山道に入る。子どもの頃、何度も通った道だ。この先に——
「——隠れ場所、見つけた」
声が、頭の中に直接響いた。温かくて、懐かしくて、そして異様なほどに甘やかな声だった。弟の声に似ていた。いや、違う。弟ではなくて——もっと昔、一緒に遊んだ誰かの声だ。
蛍の群れが、ぱっと視界に広がった。開けた場所に出たのだ。そこは、かつて「子ども会」の秘密基地があった空き地だった。今は物置小屋が朽ちかけ、周りは背の高い草に覆われている。中央には、無数の蛍が舞っていた。まるで光の渦のようだった。
「久しぶり」
今度ははっきりと聞こえた。声の方を見る。誰もいない。しかし、蛍の光の渦が、ゆっくりと人の形を取っていくように見えた。
私はそこで、夏の日の記憶を思い出した。
小学六年の夏休み。近所の子どもたち十数人で、肝試しをした。あの神社の裏手にある、廃屋で。中に入って、一番長く隠れられた者の勝ち。シンプルなルールだった。
私は弟と一緒に隠れた。廃屋の二階、押し入れの奥。暗くて、狭くて、暑かった。
「——見つけた」
声と同時に、押し入れの戸が勢いよく開かれた。外には誰もいなかった。
「——こっちだよ、まだ隠れてるんだろ?」
弟が声を震わせて私の腕を掴んだ。「お兄ちゃん、誰かいるの?」私は答えられなかった。押し入れの外には確かに「誰か」が立っていたのだ。蛍の光のような、淡い輪郭の——
「一緒に隠れよう」
そう言って、見えない手が私の手を掴んだ。その瞬間、弟が悲鳴を上げて押し入れを飛び出した。私はその後を追った。あの日から、弟は私と目を合わせなくなった。中学に入ると家庭内でもほとんど口をきかなくなり、高校卒業と同時に家を出て、今は北海道で働いている。盆にも帰ってこない。
あれは——押し入れの中にいた「何か」が原因だったのだ。私はその記憶を二十年近く封印していた。
「今日は、一緒に遊べる?」
蛍の光の群れが、はっきりと人の形を結んだ。小さな——子どもの姿だった。顔の部分だけが暗く、光の輪郭だけが浮かび上がっている。
「ずっと待ってたんだ」
その声には悲しみと、飢えのような渇望が混じっていた。
「あの日、君は僕と隠れっこする約束をして、逃げた。ずっと待ってたんだ。でも君は町を出て、帰ってこなかった」
夏になるたびに、帰省しようと思うたびに、何かに阻まれるように予定が入った。忘れていたわけじゃない。思い出したくなかったのだ。
「今度は——ちゃんと隠れてよ」
蛍の光が一斉に強くなった。熱波のように全身を襲う熱さと、それとは逆の底冷えする寒気が同時にやってくる。私の脚が、勝手に朽ちた物置小屋の方へ向かおうとしていた。
「——お兄ちゃん!」
遠くで、弟の声がした。いや、違う。弟は北海道にいる。
「——戻っておいで!」
母の声だ。神社の方向から、母の声が聞こえる。現実の音が、かろうじて私の耳に届いている。
私は振り返った。神社の提灯の灯りが、かすかに見える。あと数十メートル、藪を抜ければ境内だ。盆踊りの太鼓の音が、はっきりと聞こえる。
蛍の形をした何かが、首を傾げた。
「行っちゃうの?」
その声音に、棘のような鋭さが混じった。光が、赤みを帯び始める。
「ずっと待ってたのに——夏の夜は、毎年ここで待ってたのに」
周囲の蛍が全て、その赤い光に染まっていく。地面に落ちた影が、不自然に伸びて私の足首に絡みつこうとしている。
「一緒に隠れようよ——」
子どもの声は、もはや甘さではなく、怨嗟に満ちていた。
私は全力で走った。草をかき分け、枝に頬を打たれても構わず駆けた。後ろから、無数の光が追いかけてくる——いや、追いかけてなどいなかった。ただ、そこにあった。私のすぐ背後に、蛍の群れが一つの塊となって、貼りつくように浮いていた。
神社の境内に飛び込んだ瞬間、それらは霧散した。盆踊りの灯りの中では、蛍の光はただの儚い自然現象に戻っていた。
振り返る。参道の闇の向こうに、いくつかの淡い光が、名残惜しそうに揺れていた。
私はその場にへたり込んだ。浴衣は汗でびっしょりだった。心臓が痛いほど脈打っている。
家に帰ると、母は何も聞かなかった。ただ、「遅かったね」と言って、冷えたスイカを出してくれた。
その夜、布団の中で目を閉じると、耳の奥であの声が蘇った。
「また来年——待ってるよ」
窓の外に目をやる。庭の闇の中で、ひとつ、蛍が光っていた。それが、私の帰省のたびに、毎年必ず現れることを、私は知っている。
来年の夏も、私は帰ってくるのだろう。そして、またあの山道を歩く。あの光を追いかけて。約束を——果たすその日まで。