空室の足音

実話系怪談 |2026.06.13

これは、以前一緒に働いていた同僚のTから聞いた話だ。Tはもともとそういう類の話を信じる方ではなかったのだが、あの経験以来、夜中に物音がするとすぐに目が覚めてしまうようになったと言う。今でも時々、押し入れの方を気にする癖が抜けないらしい。

Tがそのアパートに引っ越してきたのは、今から三年前の春のことだ。地方の小さな都市で、駅から歩いて十五分ほどの場所にある、築二十年ほどの木造アパートだった。家賃が安かったのが決め手で、内見もそこそこに契約したという。周囲は住宅街で、夜になると静まり返るような場所だった。

四部屋ある二階建てのアパートの、二階の角部屋。隣の部屋は空室だと不動産屋は言っていた。Tはそれをむしろ好都合だと思った。隣に誰もいなければ騒音トラブルもないし、静かに暮らせると思ったからだ。

最初の一ヶ月は確かに静かだった。

仕事から帰ってきて、コンビニ弁当を食べ、テレビをつけて、寝る。そんな毎日が続いていた。問題が起きたのは、引っ越してから二ヶ月が経った頃だった。

その日もTはいつも通り深夜の十二時前に布団に入った。ちょうど眠りに落ちかけようとした時、隣の部屋から「ゴトッ」という音が聞こえたという。何かが床の上を転がるような、鈍い音だった。

Tは最初、自分が聞き間違えたのだと思った。隣は空室のはずだ。しかし翌日も、翌々日も、同じ時間帯になると隣の部屋から物音が聞こえるようになった。

音には不思議なパターンがあった。まず十一時半頃、誰かが部屋に入ってくるような足音。それからしばらくの沈黙。そして十二時前になると、テレビのようなかすかな音声が漏れてくる。Tは壁に耳を当てて確かめてみた。確かに、何かが放送されているような、人の話し声のようなものがかすかに聞こえる。消えたかと思うと、また同じ時間に始まる。誰かが確かに、あの空室で生活しているように思えた。

ある週末、Tは管理会社に電話をした。「隣の部屋に入居者がいるんですか?」と尋ねると、管理会社の担当者は「いえ、あの部屋はこの半年間、ずっと空室ですよ」と答えた。内見の時に聞いた通りだった。

「でも、夜になると生活音が聞こえるんです」

「そうですか…ちょっと確認してみますね」

数日後、管理会社から連絡があった。確認したところ、隣の部屋は確かに空室で、鍵もかかっており、誰かが入った形跡もないとのことだった。Tは「はあ」とだけ答えて電話を切った。

しかし音は収まらなかった。むしろ、日に日に明確になっていった。

ある夜、Tは決心して隣の部屋のドアを確かめに行った。廊下に出て、隣の部屋の前に立つ。ドアには管理会社のシールが貼ってあり、郵便受けにはチラシが詰まったままだった。間違いなく空室だ。

その時だった。

ドアの向こうから、かすかに「カチャリ」という音がした。まるで、室内側からドアノブに手をかけたような音だった。

Tは慌てて自分の部屋に戻り、鍵をかけた。その夜は一睡もできなかった。

翌日、Tは大家さんに直接連絡を取り、隣の部屋を見せてほしいと頼んだ。大家は渋ったが、Tの強い希望に押されて鍵を開けてくれた。

開け放たれた隣の部屋は、確かに誰も住んでいない空間だった。畳は日焼けして色あせ、窓にはカーテンすらない。押し入れも空っぽで、人が住んでいる気配は微塵もなかった。強いて言えば、空気がやけに冷たく感じられたことだけが、かすかな違和感だった。

Tは一通り確認して、納得しかけた。しかし部屋を出ようとした時、押し入れの隅に違和感を覚えた。畳の一部に、ほんのわずかな凹みがある。長い間、何かが置かれていたような跡だった。そこだけ畳の色が違っており、人の体重が長年かかっていたことを示していた。

そして気づいた。この部屋の間取りが、自分の部屋と完全に対称ではないことに。

Tの部屋は六畳一間で、押し入れは北側の壁にあった。しかしこの空室の押し入れは、南側の壁にある。つまり二つの部屋は、押し入れを背中合わせにする形で隣り合っていたのだ。Tの部屋の押し入れの奥の壁は、この空室の押し入れの奥の壁と、一枚の壁板を隔てて接していることになる。

「夜中に聞こえる音は、もしかしてこの押し入れの中から?」

Tは自分の部屋に戻ると、押し入れを開け放した。布団や段ボールを全部外に出し、奥の壁板に耳を当ててみた。

何も聞こえなかった。

しかしその時、Tの背筋に冷たいものが走った。押し入れの奥の壁板の、ちょうど真ん中あたりに、直径三センチほどの小さな穴が開いていることに気づいたのだ。あまりに小さく、暗がりに紛れて今まで気づかなかった。穴の縁は滑らかで、自然にできたものではなかった。

Tは慌ててその穴をガムテープで何重にも塞いだ。

それからの数日間は、なぜか静かだった。隣の物音はピタリと止んだ。Tはようやく安心して眠れるようになったと思った。本当に安心していたわけではないが、少なくともあの気配は消えたように思えた。

しかし一週間後の夜、いつもの時間になると、今度は別の音が聞こえ始めた。

隣の部屋からではなく、今度は天井からだった。

しかもそれは、物音ではなかった。声だった。かすかだが、確かに人間の声。天井裏から、誰かがTの名前を呼んでいるのが聞こえたのだ。低く、絞り出すような声で、Tの名前だけを繰り返していた。その声には、どこか懐かしさを帯びたような温もりが混じっており、それが逆に背筋を凍らせた。

Tはアパートのことを調べ始めた。地域の図書館で古い新聞を調べ、近所の年配の人に話を聞いた。すると、十年ほど前にこのアパートで起きたある事件が浮かび上がってきた。

二階の角部屋に住んでいた女性が、忽然と姿を消したのだ。彼女の部屋は、今のTの部屋の隣、つまりあの空室だった。失踪事件として処理されたが、彼女の行方は今もわかっていない。ただ一つ、奇妙な点があった。女性が消えた日の夜、隣の部屋の住人が「一日中、隣の押し入れの中で誰かが何かしている音が聞こえていた」と証言していたのだ。そしてその住人は、数ヶ月後には自分も引っ越していたという。

Tはその夜、すぐにアパートを引き払うことを決めた。

引っ越し当日、最後に部屋を見回った時、Tは押し入れのガムテープが剥がれ落ちているのを見つけた。そして、穴の向こうに、何かが映っているのに気づいた。穴の向こう側は、暗いはずの隣の部屋の押し入れの中だ。しかしそこが、ほのかに明るかったのだ。まるで、誰かが向こう側で灯りをともしているように。Tは何かが見える前に慌てて目をそらし、振り返らずにアパートを出た。

それから一年以上が経った。今は別の街の別のアパートで暮らしている。夜は静かだと言う。だが時々、押し入れの奥からかすかに音が聞こえるような気がして眠れなくなることがあるらしい。確認する勇気は、まだないそうだ。

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