四十四番のバス

都市伝説 |2026.06.15

これは、都内のバス路線にまつわる都市伝説だ。

知っている人も多いだろう——最終バスには乗るな、と。特に、行き先表示に「月待」と出る四十四番のバスには絶対に乗ってはいけない、という話を。

浩介(こうすけ)は、その噂を聞いたことがあった。新宿区の片隅にある「月待(つきまち)」という聞き慣れない停留所。地図には載っていない。存在するはずのないバス停。だが深夜零時を過ぎると、たまに——ほんのたまに——最終バスの行き先表示にその文字が現れるのだという。

「乗ったら最後、二度と戻ってこれない」

大学の先輩が酒の勢いで言っていた。浩介はその時、半分冗談だと思った。東京に二十年住んでいて、そんなバスを見たことなど一度もなかったからだ。

しかし、その日——六月の雨の降る夜——浩介は終電を逃した。

仕方なくバス停に向かうと、時刻表には午前零時十五分発の最終バスが残っていた。四十四番、行き先は「西新宿五丁目」。普通だった。浩介はほっとしてベンチに腰掛けた。雨は小降りになり、アスファルトが街灯の光を反射していた。

バスが来た。

エンジン音がやけに静かだった。車体は新しく見えたが、なぜか内装の照明が薄暗い。ドアが開くと、冷たい空気が流れ出した。運転手は中高年の男性で、無表情のまま前を向いていた。

浩介は何の違和感もなく乗り込んだ。車内には先客が三人いた。窓際のサラリーマン、後部座席でイヤホンをした女子高生、そして——最前列の優先席に、老婦人が一人、じっと前を見つめて座っていた。誰もスマートフォンを触っていなかった。

いや、誰も動いていなかった。

浩介はそのことを気にしつつも、窓の外を眺めた。しかし車窓には暗闇が広がるばかりで、どこを走っているのかもわからなかった。信号機も、コンビニの灯りも、他の車のヘッドライトさえも——何もない。バスはまるで、宇宙を漂っているかのようだった。やがて眠気に抗えず、彼はそっと目を閉じた。

夢を見た。子どもの頃、祖父母の家に遊びに行った時の夢だ。夕暮れの田舎道を一人で歩いていた。周りには誰もいない。ただ、遠くの風景だけが、なぜかやけに鮮明に焼き付いていた。

どれくらい経っただろう。

ふと気づくと、車内の明かりが変わっていた。窓の外は真っ暗だ。街灯も看板も、何も見えない。バスはトンネルの中を走っているようだったが、加速も減速もしなかった。

浩介は嫌な予感がして、運転手に行き先を確認しようとした。しかし前に進もうとした瞬間、足が止まった。

運転席の上の行き先表示が変わっていた。

「月待」

三文字が、淡い蛍光色で浮かび上がっていた。

「——すみません」

浩介の声が掠れた。運転手は何も答えない。いや、浩介が声を発したとき、運転手の口がわずかに動いたように見えた。「時間だ」と——そう聞こえた気がした。

その時だった。

車内にいた三人の乗客が、同時に立ち上がった。

サラリーマン、女子高生、老婦人。三人とも同じ方向を向いて、前のドアに向かって歩き始める。足音は一切しなかった。彼らの足は床に触れていないのではなく——音を立てないように、意識して歩いているように見えた。

「——降りるんですか?」

浩介の問いに、一番近くにいたサラリーマンが、ゆっくりと顔だけをこちらに向けた。

彼の顔に——表情がなかった。

いや、あることはあった。口元が歪んでいる。笑っているのか、泣いているのか、それとも助けを求めているのか——浩介には判断できなかった。ただ、その顔を見た瞬間、全身の毛穴が逆立った。

「——あなたも、降りますか?」

老婦人の声がした。優しい、どこか懐かしい声だった。振り返ると、老婦人が微笑んでいた。皺の深い顔が、バスの薄明かりに照らされている。

「ここが、月待ですよ」

「ここって——どこなんですか?」

老婦人は答えなかった。代わりに、窓の外を指さした。浩介が窓に目を向けると、暗闇の中にぽつんと、一つのバス停が見えた。

錆びたポールに、白いプレート。「月待」という文字は、まるで墨で手書きされたように掠れていた。誰もいない。雨も降っていない。ただ、空間だけがそこにあった。

「向こうには——何があるんですか?」

「向こう? いえ、向こうじゃありませんよ」と老婦人は優しく首を振った。「こっちです」

彼女の指が示したのは——反対側。

バスが来た方向だった。

「あなたがいた場所です。でも——」

老婦人が言葉を切った。その瞬間、バスのエンジン音が消えた。完全な静寂。時計の秒針すら聞こえない。

「——もう戻れませんよ」

女の声は別のものだった。振り返ると、イヤホンをした女子高生が、こちらを見て笑っていた。イヤホンのコードは——どこにも繋がっていなかった。

「乗ってはいけないって、言われてたでしょ」

浩介は叫びながら、今来た道を走って戻ろうとした。しかしバスのドアは閉まっている。窓も開かない。運転手は席を離れて、ゆっくりと後ろのドアに向かって歩いていた。彼の手には、何かのノートがあった。

「名前、書いてください」

運転手が初めて口を開いた。かすれた、砂利のような声だった。ノートを差し出す。表紙には「四十四番線 乗車記録」と書かれていた。

浩介は震える手でページをめくった。そこには、無数の名前が書かれていた。日付と名前。ある者は会社員として。ある者は学生として。ある者は——今日の日付で、まだ数時間前の時刻の欄がある。

そこに書かれていた名前は——

浩介だった。

「ぼくは——まだ書いていない」

「もう書いてありますよ」と運転手が言った。「あなたが乗った時点で、書き終わっているんです」

浩介はノートを落とした。ページが風もないのにぱらぱらと捲れる。そして最後のページに辿り着いた。

そこには、こんな注意書きがあった。

「このバスに乗った者は、元の世界に戻ることはできません。ただし——同じバスに新しい乗客が乗った時、最も古い乗客は解放されます」

——新しい乗客。

つまり——次の人間が、このバスに誤って乗ってくるのを待つしかないのだ。

四十四番のバスは、今夜も走る。雨の夜、終電を逃した誰かを乗せるために、都内の街灯の下を——行き先表示に「西新宿五丁目」と偽って。

もしあなたが深夜のバス停で、四十四番の最終バスを見かけたら——どうか乗らないでほしい。

すでに車内に、誰かが乗っているかもしれないから。

そしてその誰かが——あなたのことを待っている、かもしれないから。

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