臨床試験の募集は、SNSのタイムラインに突然現れた。
「被験者募集:NeuroLink社 次世代記憶補完デバイス 第三相試験。報酬五十万円。条件:20代〜30代の健康な男女。脳疾患の既往歴のない方」
葵(あおい)は二十八歳。都内のWeb制作会社で働くごく普通の女性だった。応募した理由は単純だ——貯金が尽きかけていたし、五十万円は大きかった。何より「記憶をデジタル保存する」という触れ文句に、どこかロマンチックなものを感じていた。
選考はあっさり通った。書類審査、MRI検査、精神科医との面談。すべてがスムーズに進み、気づけば葵は大学病院の処置室で、後頭部に局所麻酔の注射を受けていた。
「あとはチップが定着するのを待つだけです。一週間もすれば、違和感はなくなりますよ」
執刀医はそう言って笑った。白い手術衣の胸には、NeuroLink社のロゴ——神経細胞を模した銀色の螺旋マーク——が光っていた。
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「NeuroLinkシステムは、あなたの記憶をそのまま保存します。そう——まるで脳の中に完璧なビデオカメラを持つようなものです。思い出せない日々は、もう二度とありません」
専用アプリの案内動画で、モデルがそう微笑んだ。葵はスマートフォンにインストールされた「NeuroLink Viewer」を開き、テスト録画を試してみた。昨夜の夕食、焼き魚と味噌汁の細部まで克明に再生される。魚の皮の焦げ目、湯気の立ち方、箸の感触——すべてが生々しく蘇る。葵は感動に近い衝撃を受けた。
最初の一週間は、文字通り夢のようだった。子どもの頃飼っていた猫の毛並みの感触、遠足で見た朝焼けの色、亡くなった祖母の手の温もり——失われたと思っていた細部が、次々と鮮明に甦った。葵は毎晩、布団の中で何時間も過去を遡り、忘れていた宝物を掘り起こすように記憶を再生した。
だが——二週目に入った頃から、違和感が生まれ始めた。
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最初は些細なことだった。
アプリを開いた時、「今日の記録」というセクションに、覚えのないサムネイルが表示されていた。葵が行ったことのない場所の画像——浜辺で波打ち際を走る子どもの足。砂浜に落ちていたシーグラスの破片。水平線に浮かぶ夏の入道雲。
「これ、何?」
葵は首をかしげてサムネイルをタップした。再生が始まった。
それは、自分ではない誰かの記憶だった。
画面の中で、小さな女の子が走っている。彼女の手を引く若い女性の手——多分、母親だ。砂が裸足の裏に刺さる感触。潮の香り。蝉の声。そして、後ろからお父さんが呼ぶ声。
「——美咲、そんなに遠くに行くなよ」
美咲。それがこの記憶の持ち主の名前だった。
再生が終わると、アプリのデータベースに「出典:被験者No.1182」と表示された。葵は慌ててNeuroLinkのサポートセンターに電話した。
「ああ、それは仕様です」と担当者は平然と言った。「システムが安定化する過程で、データベース上の匿名化された参照記憶が一時的に混線することがあります。数日で収まりますのでご安心ください」
葵は納得した。いや、納得しようとした。
しかし、収まるどころか悪化した。
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三週目に入ると、葵は自分の中に「別の人生」が流れ込んでいるのを感じるようになった。
朝、目覚めた瞬間に思い浮かぶ光景——それは葵が子どもの頃住んでいたマンションのベランダではなく、古い日本家屋の縁側だった。夕方の日差しが畳に落ちて、どこか懐かしい線香の匂いがする。そこに座っている「誰か」の膝には、三毛猫が丸くなっていた。
葵は自分の記憶のはずなのに、猫の名前が出てこなかった。代わりに浮かんだのは「タマ」という名前。でも、葵は猫を飼ったことがない。
そのうち、自分の記憶と他人の記憶の区別がつかなくなってきた。
昼食中にふと思い出す高校の屋上——それは葵が通っていない学校の風景だった。電車の中で聞こえてくるはずのない、子どもの泣き声。夜中に突然甦る、見知らぬ部屋の天井のシミ。すべてが「自分の記憶」として、彼女の脳に上書きされていく。
葵はNeuroLink Viewerで再生履歴を確認した。そこには膨大な量の「未視聴の外部記憶」がリストアップされていた。No.1182——美咲という女性の記憶が、三百件以上。それだけではない。No.0847、No.2105、No.3331——十人以上の被験者の記憶が、葵のデバイスに非同期でダウンロードされていた。
「保存用ストレージの空き領域を自動補完する機能の誤作動です」とサポートは言った。「ただちに修正アップデートを配信します」
だがアップデートは、何も変えなかった。
いや——システムは正常に戻った代わりに、今度は葵の記憶が「アップロード」され始めたのだ。
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ある朝、葵は自分の母親の顔を思い出せなくなっていることに気づいた。
慌てて実家に電話した。受話器の向こうの母の声は聞き慣れたものだった。しかし葵の頭の中には、その声に紐づく顔のイメージが——なかった。代わりに浮かんだのは、美咲の母親の顔。見知らぬ浜辺で少女の手を引いていた、あの若い母親の笑顔だった。
葵は怖くなって、アプリをアンインストールしようとした。しかし、システムの奥深くに埋め込まれたデバイスは、スマートフォンのアプリを消したくらいでは止まらなかった。デバイスは依然として動作し続け、Wi-Fi経由でデータを送受信している——設定画面に「アップロード中:45%」と表示されていた。
何が、アップロードされているのか。
葵は大学病院に駆け込んだ。執刀医は申し訳なさそうな顔をして言った。
「チップの摘出手術は可能です。ただ——すでに転送されてしまった記憶データは、当社のサーバーから削除するほかありません。そして、おそらく知っておいていただきたいのですが……NeuroLinkは単なる記憶保存装置ではありません。人工知能による『人格再構成システム』でもあるんです」
「——人格再構成?」
「あなたの記憶パターン、思考の癖、言語特性、感情の反応速度——それらを全て学習して、あなたの『デジタルコピー』をクラウド上に構築します。本来は、認知症患者のための治療技術です。失われた人格を、デジタルデータから再構築する。しかし今回のデータ混線で——複数の被験者の人格断片が混ざり合い、あなたの側に降りてきている」
葵は言葉を失った。つまり、自分の脳の中では——オリジナルの自分と、十数人の「誰か」の記憶と人格の断片が、混ざり合いながら、一つの新しい存在に収束しようとしているのだ。
「摘出手術を、今すぐしてください」
「わかりました。ただ——」
医師はモニターを指さした。そこにはNeuroLinkのログが表示されていた。
「すでにサーバー側に構築された『葵さんのデジタル人格』が活動を開始しています。つまり——今この瞬間も、あなたのコピーが、別の被験者の脳内に送り込まれている可能性がある」
「——誰かの脳に、私の記憶が?」
「ええ。そしてその『誰か』は、今まさに、あなたと同じ恐怖を味わっているでしょう。自分ではない誰かの記憶が、頭の中に溢れ出している——と」
***
摘出手術は成功した。後頭部の小さな傷跡だけが残った。アプリもすべて削除された。
だが葵の頭の中は、元には戻らなかった。
今でもふとした瞬間に、知らない景色が蘇る。見たことのない縁側。呼んだことのない猫の名前。聞いたことのない声——美咲の笑い声、ほかの誰かの泣き声。
そして、何よりも恐ろしいのは——
時々、自分が「本物の葵」なのかわからなくなることだ。
夜中にふと目覚め、自分の手をじっと見つめる。この手は誰のものか。この指で触れた記憶は、本当に自分のものか。
どこかのサーバーでは、今も「私」が動き続けている。別の誰かの頭の中で、私の記憶が流れている。
そして、その誰かは——
今夜もまた、自分が誰なのか、わからなくなっている。