旧校舎の旋律
2026年6月23日
それは、誰も口にしないのに誰もが知っている噂だった。
「旧校舎の音楽室——4時半になると、誰もいないのにピアノが鳴る」
私が通っていたのは、地方都市の県立第三中学校。校舎は三棟あり、最も古い北棟——通称「旧校舎」は築五十年を超える木造モルタル建築だった。窓枠は鉄製で錆びつき、廊下を歩けばミシミシと軋む。教室としての使用は十年前に停止され、今は物置代わりに使われている。
その三階の突き当たり、一番奥にあるのが旧音楽室だ。鍵はかかっているが、その鍵穴は古びて真鍮が緑色に変色している。ガラス窓には埃で曇ったカーテンがかかり、中は薄暗く、かろうじてグランドピアノのシルエットが浮かび上がる。
一年前、私のクラスに転校生がやってきた。名前は篠原千里。彼女は都会から来たおしゃれな女子で、すぐにクラスの人気者になった。しかし彼女には奇妙な習性があった——毎日必ず、放課後に一人で旧校舎に行くのだ。
最初はただの好奇心だと思っていた。旧校舎での肝試しはこの学校の一種の通過儀礼で、三年生全員が一度はやるものだ。しかし千里は違った。彼女は毎日、欠かさず旧音楽室の前に立ち、鍵穴に耳を当てて何かを聴いていた。
「何してるの?」
ある日の放課後、こっそり後をつけた私は思わず声をかけてしまった。千里は驚くこともなく、ゆっくりと振り返った。彼女の瞳はどこか虚ろで、奥の方が暗く沈んでいるように見えた。
「聴こえない? ピアノ」
耳を澄ませても、何も聴こえない。静寂だけがある。
「もうすぐ4時半になるよ。その時に聴こえるんだ」千里はそう言うと、自分の腕時計を指さした。針は4時29分を指している。
「でも——この部屋、誰もいないんだろ?」
千里は答えなかった。代わりに彼女は再び鍵穴に耳を当て、そっと目を閉じた。その横顔はあまりにも真剣で、まるで祈りを捧げているように見えた。
その時だった。
——ポロン。
確かに、鍵穴の奥からピアノの音が聞こえた。単音だった。まるで指が一つの鍵盤を、遠慮がちに押したような。
次に、もう一つ。続いて三つ目の音。それはゆっくりと、だが確かに旋律を描き始めた。ショパンの『葬送行進曲』——私も音楽の授業で聴いたことのある旋律だったが、そのテンポは明らかに遅すぎた。一つひとつの音が引きずられるように響き、不協和音が混じっている。どこか狂った演奏だった。
「あ——」千里の喉が小さく鳴った。
「千里、もう——」
「しっ。聴いて」彼女は片手を上げて私を制した。「この曲、途中から誰かもう一人加わるの」
言われて耳を澄ますと、確かに低音部で別の指が動いている気配があった。最初の旋律に呼応するように、もう一つの旋律が絡み始める——まるで連弾だ。しかし、不協和音がさらに大きくなり、二つの旋律は互いにぶつかり合い、引き裂くように歪んだ。
そして突然——
——ジャン。
けたたましい不協和音が響き、すべてが止んだ。
「また、今日も失敗したね」千里は寂しそうに笑った。そして私に背を向けて、早足で階段へと向かった。私は呆然と、鍵穴を見つめることしかできなかった。
それから一週間後、千里は学校に来なくなった。
担任の先生は「家庭の事情」と言ったが、クラスメイトの間では違う噂が流れていた。篠原千里の家にあるノート——そこには旧校舎の音楽室についての調べものがびっしりと書かれていたというのだ。
私は放課後、千里の家を訪ねた。彼女の母親は憔悴しきった顔で出迎え、千里が部屋にこもっていること、何を話しかけても「あのピアノを止めなきゃ」としか言わないことを教えてくれた。母親は震える手で、千里のノートを私に見せてくれた。
ノートには、三十年ほど前の出来事が記録されていた。
当時の音楽部には、ピアノの才能に恵まれた一人の少女がいた。彼女は全国コンクールを目指して毎日遅くまで練習に励んでいた。しかしある日——体育館の倉庫で、彼女は同級生の男子数人に呼び出された。反抗的な態度が気に入らない、生意気だ——そんな理由で、彼女は集団で暴行を受けた。特に、ピアノを弾く指を標的にして、机の脚で何度も何度も——。
彼女の指は完全に砕かれた。二度とピアノを弾けないと医者に宣告されたその夜、彼女は旧校舎の音楽室に忍び込み、最後の力を振り絞って一曲を弾いた。砕けた指で鍵盤を叩く音だけが、旧校舎中に響き渡ったという。翌朝、彼女は音楽室で見つかった——ピアノの椅子に座ったまま、動かなかった。
そして彼女は、今もそこで弾き続けているのだという。
完璧な演奏ができるまで——誰かが、もう一度連弾をしてくれるまで。
ノートの最後のページには、千里の震えた字でこう書かれていた。
「彼女は一人では弾けない。だから誰かを呼ぶ。私の指を——私に弾かせようとしている」
背筋が凍った。
あの日、鍵穴から聴こえた二つの旋律。不協和音に歪む二つの意志。
私は次の日、学校が終わると同時に旧校舎へ走った。そして郵便受けからいつも盗み見ていた合鍵を使い、音楽室の扉を開けた。
部屋の中は、冷え冷えとした空気で満ちていた。グランドピアノの蓋は開いていた。鍵盤には——確かに、楕円形のくぼみがいくつもついていた。誰かが、強く押し続けた指の跡だ。
私は震える手で蓋を閉じた。そして鍵をかけ、二度と開けることはなかった。
千里はその後、一ヶ月ほどで学校に戻ってきた。彼女は旧校舎のことについて一切話さなくなった。あの音楽室にも、二度と近づこうとはしなかった。
しかし、時々思うのだ。
あの日、鍵穴から聴こえた二つの旋律。一つは間違いなく、あの少女のものだった。もう一つは——千里が呼ばれたのか、それとも私自身が呼ばれていたのか。
今も、旧校舎の音楽室では、4時半になるとピアノが鳴るという。誰かがその旋律に応えて連弾する時まで——決して終わることなく。
噂を信じるかどうかは、あなた次第だ。
ただ——もし学校で、放課後に鍵穴に耳を当てている同級生を見かけたら、声をかけてはいけない。彼女はもう、向こう側の旋律に応えてしまっているのかもしれないから。