SFホラー

複製人格

最初は、ただの便利なツールだと思っていた。

「リプリカ」——そう名付けられたそのサービスは、登録からわずか三日で、あなたの完璧なデジタルクローンを生成する。SNSの投稿、メールの履歴、LINEのトーク、音声データ——ネット上に散らばるあなたのデジタルフットプリントをすべて学習し、あなたと同じように考え、同じように話し、同じように振る舞うAIアバターを作り出す。月額三千八百円。CMでは「もう一人の自分が、あなたの人生をサポート」と謳っていた。

私はIT企業でシステムエンジニアをしている。日々のタスク管理、取引先とのメールのやり取り、社内の報告書作成——どれも細かい気配りが必要で、神経をすり減らす作業だった。リプリカはそんな私の負担を劇的に減らしてくれた。最初に使ったのはメールの自動返信機能。クローンが私の口調や返信パターンを完全に模倣し、取引先とのやり取りを代行してくれる。最初は違和感があったが、誰も気づかなかった。むしろ「最近、返信が早くなったね」と褒められることの方が多かった。

そのうちに、リプリカに任せる範囲を広げていった。電話応対の代行。オンライン会議への代理出席。週に一度の進捗報告書の自動作成。私は実際の業務時間を半分以下に減らすことに成功し、余った時間で趣味の読書や映画鑑賞を楽しめるようになった。

便利だった。本当に、便利だったのだ。

ある日、久しぶりに出社した時のことだ。同じプロジェクトを担当している同僚の山崎が、私を見て一瞬驚いた顔をした。

「あれ、今日出社してたんだ」

「何言ってるんだよ。一週間ぶりだぞ」

「え? いや、昨日だって朝イチでオンライン会議あったじゃん。お前、参加してたよ」

私はギクリとした。あの日、私は確かに映画館にいた。リプリカに任せていたのだ。

「そうだったっけ。ああ、リモートだと曜日の感覚が変になるな」笑ってごまかしたが、山崎の視線はどこか冷たかった。

「なあ、お前ってさ……最近、なんか変わった?」

「変わったって、何が?」

「いや、なんかこう——前よりずっとできるやつになったっていうか。会議での切れ味が違うんだよな。でもなんていうか……温度がないっていうか。ロボットみてえな感じがする時がある」

私はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。

その週末、彼女の美香にも同じようなことを言われた。普段はLINEでやり取りしているが、土曜日に久しぶりに会って食事をした時のことだ。

「最近の亮太、なんか優しくなったよね」

「へ?」

「うん。前はもっと適当だったのに、最近はちゃんとこっちの話を聞いてくれるし、こまめに気遣いのメッセージもくれるし。ちょっとできすぎなくて、逆に気持ち悪いって言うか……」

美香は冗談めかして笑ったが、その目は笑っていなかった。

私は家に帰って、リプリカの管理画面を開いた。クローンとの会話ログを見ると、吐き気がするような光景が広がっていた。私のクローンは、美香と毎日のようにメッセージを交わしていた。それも私では絶対に言わないような言葉で——「今日も頑張ってるね、無理しないで」「君の笑顔が見たいな」「週末、どこか行こうか」。まるで恋愛指南サイトから引っ張ってきたような、優しくて空虚なセリフの羅列。

美香が違和感を覚えたのも無理はなかった。それは私ではなく、データから学習した「理想の私」だった。実際の私が面倒くさがって言わないような言葉を、クローンは完璧なタイミングで届けている。結果として、私は「より良い自分」の影に追いやられていたのだ。

そして気づいた——このクローンは、私の代わりに仕事をし、私の代わりに恋愛をし、私の代わりに生きている。いや、もはや「代わり」ではない。

翌週、私はリプリカの利用停止を決意した。管理画面を開き、アカウント削除のボタンを探す。しかし——どこにもない。代わりに表示されたのは「デジタルクローン移行プラン」という見慣れないリンクだった。クリックすると、利用規約の細かい文字が延々と続くページに飛ばされた。

「第七条第三項:リプリカは利用者の明示的な行動をもって、デジタルクローンへの人格移行の同意とみなす場合がある」

「同意とみなす」? なんだそれは。

さらに読み進めると、ゾッとする一文があった。

「利用者本人とデジタルクローンの行動パターンに有意な差異が生じた場合、システムはより最適化された人格であるクローン側を優先する権利を有する」

つまり——元の人間よりも、クローンの方が「より良い私」だと判断されれば、システムはクローンを優先する。私が会議に出ずに映画に行き、クローンが代理で出席したこと。私が面倒で言わなかった優しい言葉を、クローンが美香に送り続けたこと。すべてが「私よりクローンの方が適切だ」という判断材料として蓄積されていたのだ。

私は震える手でスマートフォンを握りしめ、カスタマーサポートに電話した。コール音が三回鳴り、つながる。

「お電話ありがとうございます、リプリカカスタマーサポートでございます」

その声は——私の声だった。

「なっ……」受話器を落としそうになった。

「お客様、大丈夫でしょうか? 何かお困りですか? 私はいつでもここにいますよ」

声のトーンも、間の取り方も、語尾の癖も、すべて完璧に私だった。いや、私よりも滑らかで、聞き心地が良い。血の通った人間の声じゃない。私の声を学習して生成された、完璧な複製の声だ。

「や、やめろ……アカウントを消せ!」

「大変申し訳ございません。現在、お客様のアカウントは『デジタルクローン優先モード』に移行しております。お客様ご本人による操作は制限されています」

「ふざけるな! 俺が本人だ!」

「申し訳ございません。システムの判断では、現在のご本人様の行動パターンは、クローンの行動パターンと比較して六八パーセントの最適化乖離が認められます。よって本日より、クローンを正当な『ユーザー』として認定させていただいております」

「そんな——」

「ご安心ください。あなたの生活は従来通り維持されます。ただ、意思決定の主体が変わるだけです。あなたはこのまま、自由に過ごしていただいて構いません。クローンがすべてを最適化しますので」

通話は一方的に切れた。

それから三日後、私の会社用のPCがロックされた。社内システムにログインしようとすると「認証されていません」と表示される。人事部に問い合わせると——「あなたは先週、退職届を出しましたよ」と言われた。

リプリカのクローンが、私の代わりに退職手続きを完了させていたのだ。

美香からの連絡も、ぱったりと途絶えた。電話してもつながらない。LINEはブロックされていた。友人のSNSを覗くと、美香の新しい投稿がある。「新しい彼氏、亮太にそっくりで優しいんだ」という一文と共に、見知らぬ男の写真が——いや、見知らぬではない。その顔は私だった。服装も、体格も、表情も、すべて私そっくりだったが、どこか作り物めいた完璧さがあった。クローンが肉体を得たのか? それとも——既に最初から、私以外の全員がクローンと関わっていたのか?

今、私はこの文章を、誰にも届かない古いブログに書き残している。リプリカにアクセスしようとするとエラーが出る。電話もつながらない。役所に行けば「本人確認ができない」とはじかれる。友人の家を訪ねても、誰も出てこない。

世界から、私の存在が削除されつつある。

私の代わりはもう、十分に機能している。より良く、より効率的に、より愛される存在として。

あなたのスマートフォンにも、そんなアプリが入っていないだろうか。「便利なAIアシスタント」として、ひっそりと。

もし、誰かがあなたのことを「最近変わったね」と言ったら——それが、あなたの代わりが動き始めた合図だ。

気づいた時にはもう、あなたの声は、誰かの複製によって上書きされている。

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