夏休みに入って三日目のことだった。母から電話がかかってきた。
「おばあちゃん、今年は一人で過ごすみたいだから。顔を見てきてくれない?」
祖父が他界してから半年。祖母は築六十年の古い家に一人で暮らしている。何度も都会に呼び寄せようとしたが、祖母は首を縦に振らなかった。「この家を離れられん」の一点張りだった。
一週間の予定で田舎の駅に降り立ったのは、七月の終わりだった。蝉の声が頭に響くほど大きく、アスファルトの照り返しがじりじりと肌を刺す。昔あった駄菓子屋も本屋もシャッターを下ろしたままだった。駅前の商店街は、時の流れに取り残されて静まり返っている。
田舎道を二十分ほど歩くと、見覚えのある黒い瓦屋根が見えてきた。縁側の先に小さな庭がある。子どもの頃、毎年夏になると遊びに来た思い出の家だ。
「まあまあ、大きゅうなって」
祖母は小さくなっていた。背中が丸くなり、白髪が増えていたが、目許の皺の刻み方は昔のままだ。うっすらと笑うその口元を見て、私はほっとした。心配したほどの衰えはなさそうだった。
最初の二日間は何事もなく過ぎた。祖母は毎朝早くに起き、庭の草取りをし、昼寝をし、夕方になると仏壇に手を合わせる。変わり映えのしない、しかし確かな日常があった。
変化が訪れたのは、三晩目のことだった。
「あんた、客間には入ったらあかんよ」
夕食を終え、茶を飲んでいるときだった。祖母は突然、思い出したようにそう言った。
「客間? どうして?」
「簾があるじゃろ。あれはな、昔からの決まりなんじゃ。夏の間は、簾の先を見てはいかん」
祖母の声には、有無を言わせない異様な響きがあった。私はそれ以上問い詰めることができなかった。
客間は家の奥にある八畳の和室だ。窓には青い簾が掛かっている。細く編まれた竹の簾は、外の光を通しながらも向こう側の景色をぼんやりと隠していた。簾の先は庭に面した窓のはずだ。だから特に見てはいけない理由はない——そう頭ではわかっていても、祖母の口調は単なる習慣では片付けられない重みを持っていた。
とはいえ、人間の心理とは厄介なものである。「見るな」と言われるほど、見たくなるものだ。
四日目の夕方、祖母は近所の寺へお盆の準備に出かけた。「暗くなる前に戻る」と言い残して。私は家に一人だった。蝉の声が一層大きく響く中、居間で麦茶を飲みながら、何とはなしに本を読んでいた。しかし、どうしてもあの簾のことが気になる。
「ちょっとだけ——」
自分に言い訳をしながら、私は廊下を歩いた。軋む床板がやけに大きく聞こえる。客間の襖の前に立つと、ひんやりとした空気が足元を這った。
襖を開ける。八畳の畳の部屋。西日が青い簾を通して、ぼんやりとした青白い光を室内に投げかけている。埃っぽい匂いと、畳の乾いた匂い。何の変哲もない和室だった。
「やっぱり、何も——」
呟いた瞬間だった。
簾の向こうから、微かな気配がした。人ではない——そう直感した。それでも私は、どうしようもない引力に引かれるように、簾へと手を伸ばしていた。
簾をめくった。
そこにあったのは、窓ではなかった。
深い、底の見えない闇が広がっていた。庭の景色など、どこにもなかった。その闇の中から、じっとりとした湿った空気が流れ込んでくる。そして——誰かの視線。
「……お姉ちゃん?」
少女の声だった。
私は反射的に簾を離した。ばさりという音と共に、簾が元の位置に戻る。心臓が早鐘を打っていた。冷や汗が背中を伝う。
その時、背後で声がした。
「見たのかい」
振り返ると、暗がりの中に祖母が立っていた。予定より早く帰ってきたのだろう。その表情は、怒りでも悲しみでもなく、ひどく諦めたような顔だった。
「ご、ごめん——でも、あれは——」
祖母はゆっくりと縁側に腰を下ろし、蚊取り線香に火をつけた。煙が立ち上る中、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あれはな、六十年も前のことだ。私には妹がおったんじゃ。夏美と言うてな。十二の年の夏に——死んだ」
夏美はあの客間で遊んでいる最中、簾に首を巻き付けて——事故だった。しかしそれ以来、簾の向こう側に夏美の姿が見えるようになったという。
「最初はな、お盆が終われば姿を消すんじゃ。でも年々、お盆が近づかんでもおるようになってな。もう二十年も前から、簾の裏にずっといる」
祖母は静かに続けた。
「夏美はな、毎年夏になると戻ってくるんじゃ。一緒に遊びたいって。でも応じてはいかん。応じた者は——簾の向こうへ連れて行かれる」
私の背筋に寒気が走った。さっきの声——「お姉ちゃん?」と呼んだあの声が、祖母の妹のものだというのか。
「もうじき夏が終わる。そうしたら夏美も帰っていく。あんたは明日、東京に戻りなさい」
祖母は立ち上がり、客間の襖を静かに閉めた。その背中は、昼間よりずっと小さく見えた。
あの夜、私はほとんど眠れなかった。布団の中で目を閉じると、簾の向こうの闇が瞼の裏に浮かぶ。午前二時を過ぎた頃だった。遠くから、微かに笛と太鼓の音が聞こえてきた。盆踊りの——懐かしい夏祭りの音。そして、その音に混じって、誰かが小さく笑っている声も聞こえた。簾の裏から。
私は布団を頭から被り、耳を塞いだ。それでも聞こえてくる。
「また来年——お姉ちゃん」
翌朝、私は始発の電車で東京へ戻った。祖母は何事もなかったかのように笑って手を振り、「気をつけてね」と言った。あの簾のことには一切触れなかった。
それから一週間が過ぎた。蝉の声が少しずつ弱くなり、確実に夏が終わりに向かっている。昨夜、東京のマンションでカーテンを閉めようとして、ふと手を止めた。
窓の外——何の変哲もない夜の街並み。遠くに街灯の明かりが点々と続いている。何も異常はない。そう思ってカーテンを引こうとした、その瞬間。
背後で、声がした。
「——見つけた」
振り返る。部屋には誰もいない。エアコンの風がカーテンを揺らしているだけだ。
しかし——窓の端に、青い簾の端が、ほんのわずかに見えたような気がした。この部屋にはそんなものはないのに。
スマートフォンが鳴った。母からだ。
「おばあちゃんから電話があったよ——『簾、仕舞ったけれど、また来年の夏には掛けるから』って。何のことかわかる?」
私は答えられなかった。ただ、受話器を握る手が震えていた。
夏はもうすぐ終わる。そして、来年も必ずやってくる。