これは、私の大学時代の後輩であるKから聞いた話だ。Kは今はもう故郷に戻ってしまったが、あの年の夏、彼女が話してくれた体験は、今でも鮮明に覚えている。自分にも起こり得ることだと思うと、ぞっとしないではいられなかった。
Kが今のアパートに引っ越してきたのは、大学三年生の春だった。東京の下町、駅からバスで十五分ほどの場所にある築三十年の木造アパート。家賃が安かったのが決め手だった。大家さんは初老の女性で、「静かな人に来てもらえて安心した」と言ってくれたという。
問題が起きたのは、引っ越してから二週間ほど経った頃だった。
郵便受けに一通の封筒が入っていた。差出人は「佐々木和子」という女性の名前で、住所は都内の住宅地だった。宛名は「山崎美香 様」。Kは山崎美香という人物を知らなかった。もちろん、このアパートの前の住人がその名前だったのだろうと考え、郵便受けに「宛先人不明」と書いてポストに入れ直した。
しかし次の日も、また同じ差出人から同じ宛名の封筒が届いていた。今度は前面に「転送・心当たりのある方へお渡しください」と赤字で書かれていた。Kは少しいらだちながらも、再度ポストに返送した。
三日後、今度は別の封筒だった。差出人は同じ「佐々木和子」。だが今度の宛名は「山崎美香 様」の下に、小さな字で「この方の行方をご存じの方はご連絡ください」と書かれていた。そしてその下には佐々木和子の電話番号が記されていた。
Kは仕方なく、その電話番号に架電した。
電話に出たのは、年老いた女性の声だった。「もしもし、佐々木ですが」——どこかか細く、哀しみを帯びた声だった。Kは自分が新しい住人であること、山崎美香という人物を知らないことを伝えた。すると電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。
「そうですか……やっぱり、そうなんですね」
佐々木和子は、ぽつりぽつりと話し始めた。山崎美香という女性は、彼女の一人娘だったという。数年前に家を出て、このアパートで一人暮らしを始めた。しかしある日、ぱったりと連絡が途絶えた。携帯電話にも繋がらず、何度訪ねても部屋には誰もいなかった。管理会社に問い合わせても「退去済みです」とだけ言われた。
「それでも、生きているんじゃないかと思って……手紙を出し続けてしまって。ごめんなさいね、新しい住人の方にご迷惑をおかけして」
Kは胸が痛んだ。娘を想う母親の切実さが、電話越しにもひしひしと伝わってきたからだ。Kは「もし何かわかったらお知らせします」とだけ伝えて電話を切った。
それから一週間ほどは、手紙は来なくなった。Kはホッとしていた。あの年老いた母親も、ようやく諦めたのだろうと思った。
しかし十日目の朝だった。郵便受けに、またあの同じ差出人の封筒が入っていたのだ。Kはさすがに困惑した。電話で話したはずなのに、なぜまた送ってくるのか。
封筒を開けてみることにした。
中には便箋が一枚。筆記体でつづられた文字は、前回電話で聞いた声よりもずっと若々しく、しっかりとした筆致だった。
「美香ちゃん、元気ですか。最近、あなたのアパートの前まで行ってみたの。窓に明かりがついていたわ。誰かが住んでいるみたいだけど、あなたではないのね。でも、近くにいると感じられるだけで、少しだけ安心できるの。次の日曜日、また手紙を書くわ」
Kは手紙を読み終えて、背中が冷えるのを感じた。この母親は、まだ娘を探し続けている。しかし何より気になったのは、手紙の日付だった。消印には、昨日の日付が押してあったのだ。
この手紙を書いた佐々木和子は、Kが一週間前に電話で話したあの年老いた女性とは思えなかった。この手紙の文体は、どこか浮き足立っていて、正常な精神状態とは思えなかった。
Kは再び佐々木和子の電話番号に架電した——が、今回はつながらなかった。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」というアナウンスが流れるだけだった。
不気味に思ったKは、大家さんに佐々木和子のことを尋ねてみた。すると大家さんは、意外なことを言った。
「佐々木和子さん?知ってるよ。でも、その人はもうずいぶん前に亡くなってるはずだよ。確か、娘さんが行方不明になったショックで体調を崩して、そのまま——」
Kは言葉を失った。それから大家さんの話を聞くと、佐々木和子は三年前に他界していた。そして娘の山崎美香も、行方不明のまま見つかっていないという。つまり、Kが電話で話したあの年老いた女性は——すでにこの世にいない人物だったことになる。
しかしそれだけでは終わらなかった。
翌週から、手紙は毎日届くようになった。差出人はすべて佐々木和子。だが消印の位置がだんだんと近づいてきていることに、Kは気づいた。最初は都内の住宅地だった消印が、次は近隣の郵便局、そしてKのアパートの最寄りの郵便局の消印になっていたのだ。
Kは恐怖のあまり、管理会社に連絡してアパートを替えてもらおうかと真剣に考え始めた。
最後の手紙が届いたのは、それから三日後のことだった。
封筒には差出人の住所が書かれていなかった。代わりに、赤字で「転送不要」とだけあった。中を開けると、そこには一枚の写真が入っていた。古びた写真だった。写っていたのは、若い女性と、初老の女性が並んで笑っている姿。おそらく、山崎美香と佐々木和子の親子だろう。背景には見覚えのあるアパートの玄関が写っていた。Kが今住んでいるそのアパートの、おそらく十年前の姿だった。
そして写真の裏には、こう書かれていた。
「今も、あなたのすぐそばにいます。——届け先は、間違っていません」
Kはその日のうちにアパートを引き払う決意をしたそうだ。今もあの写真はどこにあるのだろうか。捨てるに捨てられず、実家の引き出しの奥にしまってあるらしい。時々ふと、あの年老いた女性の声が耳に蘇ることがあると言う。「生きているんじゃないかと思って」——あの言葉には、もしかすると別の意味があったのかもしれない。死んでもなお、娘を探し続ける母親の執念が、間違った住所に届き続けた手紙の正体だったのか。それとも、K自身にしか届かない何かが、最初からその手紙には込められていたのか。Kは答えを出せずにいる。そして今も、実家の郵便受けに知らない差出人からの手紙が届くたびに、一瞬だけ手が止まるのだと言う。