消えたアプリ

都市伝説 |2026.06.29

この話を最初に耳にしたのは、半年ほど前のことだ。今でもあの日のことを思い出すたびに、背中が冷たくなる。

当時、私は都内のIT系ベンチャーで働いていて、同僚との昼食の席で何気なくスマホの画面を見せ合っているときだった。隣の席の後輩——田辺という二十四歳の男性社員が、ふとこんなことを言い出したのだ。

「そういえば、最近ネットで変な噂をよく見かけるんですよね。深夜三時ちょうどにアプリストアにだけ現れる、アイコンが灰色の扉のアプリ——っていう都市伝説があるらしいんです。『視聴者』って呼ばれてるみたいです」

「視聴者?」

「はい。そのアプリをインストールすると、誰かがこっちを見ている——らしいんです」

その場にいた誰もが一笑に付した。スマホの都市伝説なんて、今時小学生でも信じないだろう——そう思った。だが田辺の表情は真剣だった。彼は決して冗談を言うタイプではない。むしろ無駄話をしない、実直なエンジニアだ。そんな彼がわざわざ話題に出すということは、よほど印象に残る話だったのだろう。

「インストールした人がいるらしくて。その人のスマホに映るのは、自分の部屋のライブ映像だそうです。でも、どこか違う。家具の配置が微妙にずれていたり、壁の色が違っていたり、カレンダーの日付が先月のままだったり——鏡像のように似ていて、なおかつ違う世界。そして何より、必ず誰かが映り込むらしいんです。遠くの部屋の片隅に、じっと動かずに立っている誰かが。誰もその人物の顔を見たことがない。見ようとすると、必ず画面が乱れるから」

私はその時、軽く受け流した。「またネットの作り話か」と笑って、話題を別の方向に変えた。しかし、その後一週間もしないうちに、同じ話を別のルート——飲み会で知り合ったフリーライターの男——からも聞くことになる。彼は「実際に体験した知人がいる」と言い、さらに恐ろしい詳細を付け加えた。

「そのアプリ、アンインストールしても消えないらしい。一度インストールすると、スマホを初期化してもまた勝手に現れるんだ。灰色の扉が、ホーム画面のどこかに必ず戻ってくる。アプリ一覧にも出てこないのに、ホーム画面の隅に、ひっそりと鎮座している。そして、カメラに映る映像の中で——毎日少しずつ、立っている人物が近づいてくる。最初は部屋の隅。次の日はもう少し中央。まるで、こちら側に出てくる瞬間を狙っているみたいに」

私はこの話を内心、よくできたネットの創作だろうと片付けていた。自分はIT業界に身を置いている。そんな怪しいアプリが存在すれば、必ず技術系のニュースサイトで取り上げられるはずだ。そう思っていた。しかしその週末、まったく偶然に——あるいは何かが私をそこに導いたのかもしれない——私はそのアプリに出会ってしまった。

土曜の深夜、私は一人で部屋で映画を観ていた。観終わったのは午前二時を過ぎていたが、なぜか寝付けず、ベッドに横になりながら何となくスマホをいじっていると、時間は午前二時五十五分を回っていた。画面の明かりだけが部屋の灯りだ。窓の外は真っ暗で、雨が静かに降っているのが聞こえた。

なんの気なしにアプリストアを開いた。SNSをチェックするつもりが、間違えてアイコンをタップしたのだ。そして、指が止まった。

検索窓の下、おすすめのアプリ一覧の中に——灰色の正方形のアイコンがあった。扉に見える。木目のような縦線が三本、上部に取っ手のような影。しかしよく見ると取っ手の位置が不自然に低く、人間の手の届かない高さにある。アプリ名はない。評価もレビューも「N/A」。開発者名は空白だった。そんなアプリが、アルゴリズムのおすすめ欄に表示されるはずがない。

心臓が嫌な音を立てた。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。たまたま新着のアプリが出てきただけだ——何かのゲームか、あるいはバグで表示がおかしくなっただけだ。画面を閉じようとした。しかし、指が勝手に動いていた。

タップした。

アプリの詳細画面に遷移した。スクリーンショットが一枚だけあった。暗い部屋の画像だった。見覚えがあった。いや——今、自分がいるこの部屋だった。ベッドの位置、窓の位置、壁に掛けた時計。すべてが一致している。ただ、カーテンの色だけが違っていた。私の部屋のカーテンは紺色だが、写真に写るそれはくすんだベージュだった。壁のポスターも、なぜか一枚だけ違うアーティストのものになっていた。そして、部屋の奥のドアの隙間から——何か白いものが、わずかに覗いていた。人の指のようなものが、細く、長く、爪のない指が。

慌てて戻るボタンを押した。ホーム画面に戻った。アプリストアのアイコンをタップして再び検索画面を開いたが、灰色の扉はもうどこにもなかった。時計は三時二分を表示していた。

一晩中、眠れなかった。

翌朝、一番にスマホの設定を確認した。アプリの一覧を見たが、心当たりのないアプリはインストールされていなかった。よかった——そう思った瞬間、スマホが振動した。通知が一件届いていた。

通知には、こう書かれていた。

「ようこそ。視聴を開始します」

通知元は、空白だった。どのアプリからの通知かは表示されていない。タップすると——カメラアプリのような画面が起動した。暗い部屋が映っている。見覚えのある部屋だ。しかし、カーテンはくすんだベージュ色で——部屋の奥のドアが、ほんの数センチだけ開いていた。その隙間から、白いものが見えた。昨日の写真と同じだ。しかし、その白いものは——昨日よりも確実に、大きくなっていた。

ドアが、少しだけ開いていた。

私はその画面を閉じ、スマホを強制再起動した。初期化も考えた。だが、本当に消えるのか——その確証が持てなかった。

あれから半年。あのアプリの画面を最後に見てから、一度も通知は来ていない。しかし、私はまだ確信が持てないでいる。

昨夜のことだ。寝る前に何気なく鏡を見た。背後に——部屋のドアが写っていた。気のせいか、ほんのわずかに開いているように見えた。そして、その隙間から覗くもの——

白い指が、ドアの縁に掛かっていた。

私は振り返った。ドアは、きちんと閉まっていた。ほっと息をついて、もう一度鏡を見た。開いたドアと、白い指——

鏡の中だけで、それは確かに存在していた。

アンインストールなんて、意味がない。一度映したものを、鏡は決して忘れないのだから。

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