反響

心理ホラー |2026.07.04

山崎栞がこのマンションに引っ越してきたのは、六月の終わりだった。都心から三十分ほどのベッドタウンに建つ十二階建ての新築分譲マンション。最上階の東南角部屋、間取りは二LDKで一人暮らしには広すぎるくらいだが、内覧で窓から見えた夕陽に一目惚れして契約してしまった。

最初の違和感は、入居から一週間ほど経った夜に訪れた。

午前一時過ぎ、ベッドに入ってうつらうつらし始めた頃だった。壁の向こうから、かすかに声が聞こえた。女性の声だ。眠気に沈みかけた意識の中で、栞はぼんやりと思った——隣の部屋の住人か、と。深夜に誰かと電話でもしているのだろう。

そう思って、気にしないようにした。マンションの壁は決して薄くない。新築なのだから、遮音性能も基準を満たしているはずだ。だが、次の夜も、その次の夜も、同じ時間になると壁の向こうから声が聞こえてくる。しかも——気のせいかもしれないが——その声の抑揚が、どこか自分自身の話し方に似ているような気がした。

同じ言い回し。同じ間の取り方。笑うときの同じ癖。疑い始めると止まらなかった。

三週間目の夜、栞は決心して、隣の部屋のインターホンを押した。深夜ではなかった。午後九時過ぎ、まだ常識的な時間だ。ピンポーンという音が、無機質に廊下に響く。返事はなかった。もう一度押す。やはり静かなままだった。

帰ろうとしたその時、ふと——部屋の中から、自分のスマートフォンの着信音が聞こえた。いや、似ているだけで別の音だ。そう思おうとした。だが耳を澄ませば澄ませるほど、それは自分の設定している着信音とまったく同じメロディーに聞こえた。しかも鳴っているのは、ちょうどインターホンの真後ろ——つまり、このドアのすぐ向こう側からだ。

栞は自分のスマートフォンを確認した。着信はない。画面は真っ暗なままだった。

翌日、管理会社に問い合わせてみた。隣の部屋はどういう人が住んでいるのか、と。管理会社の対応は事務的だった。「そちらの部屋——二号室ですね。お客様のお部屋と同じ間取りの、ワンルームタイプですが——現在、入居者の記録はございません」

空室だと言うのだ。

しかし、クリーニングのタイミングで一度入った管理人の話では、室内には家具が置いてあり、冷蔵庫には食品が入っていたらしい。「誰か住んでるみたいだけど、書類が通ってないのかな」と管理人は軽く言ったが、栞はそれ以上追及できなかった。なぜか——胸の奥で、知ってはいけないことがあるような予感がしたからだ。

その夜も、声が聞こえた。

今度ははっきりと、言葉が聞き取れた。

「——私も、同じことを考えていた」

栞の呼吸が止まった。それは、自分が今まさに考えていたことを、誰かが口にしたように聞こえたのだ。壁の向こうの声は続く。

「インターホンを押した。返事はなかった。でも中から——」

栞は頭を抱えた。それは、今日自分が体験したことの要約だった。壁の向こうの誰かが、今日の自分の行動を、まるで自分の体験として語っている。

栞は次の日、別の階の住人に話を聞いて回った。同じ棟の住人は十人程度いたが、誰も彼女の話に真剣に耳を貸そうとしなかった。ただ一人、五階に住む中年の男だけが、意味深なことを言った。

「このマンション、全部の部屋が同じ間取りなんですよ。ワンフロアに四戸。十二階で四十八戸。全部がね——まったく同じ間取り」

「新築ならよくあることでは?」と栞が言うと、男は首を振った。

「違うんですよ。間取りだけじゃない。給湯器の位置、コンセントの配置、窓の大きさ、全部が隅々まで——設計図が一枚なんです。つまりこのマンションは、同じ部屋を四十八回コピーして積み上げたようなものだ」

栞は得体の知れない寒気を覚えた。

その日の深夜、栞は決意して、二度目の訪問を試みた。今度は合鍵を借りようとは思わなかった。ただ——壁に耳を当てて、じっと聞いた。声が聞こえる。女の声。聞き覚えのある、いや、自分の声。

「——どうして私の部屋に、誰もいないの」

その言葉を聞いた瞬間、栞はすべてを理解した。

壁の向こうの「彼女」もまた、壁に耳を当てて、こちらの声を聞いているのだ。彼女もまた、隣の部屋の住人が気になって仕方がない。彼女もまた、自分の生活パターンとまったく同じリズムで動く誰かの存在に怯えている。

そして——彼女もまた、気づいてしまったのだ。このマンションのすべての部屋に、同じ人間が住んでいることに。

栞は駆け出した。エレベーターに飛び乗り、一階まで降りた。ロビーの姿見に、自分が映る。息を切らした女が一人。それだけだ。だが、ふと考えた。姿見に映る「私」は、本当に私だろうか。鏡の向こうの自分が、ほんの一瞬だけ、違う動きをしたような気がした。

——いや、気のせいだ。

そう思いながらマンションの敷地を出ようとして、栞は足を止めた。ちょうど正面の道路から見上げると、このマンションの全室の窓が一望できる。真夜中の闇の中、四十八の窓のうち——半数ほどの部屋に明かりが灯っている。すべての明かりが、同じ場所に、同じ色のカーテンを通して、同じように漏れている。

玄関の鍵も同じ。靴箱の位置も、キッチンの吊り戸棚の高さも、トイレのペーパーホルダーの向きも——おそらくすべての部屋が、寸分違わず同じ配置なのだ。

栞は震えながら自室に戻った。部屋の明かりをつけ、カーテンを閉め、布団にくるまった。それでも声は聞こえる。壁の向こうから。天井の向こうから。床の下から。この建物のすべての壁は、同じ声を反響させている。

「おやすみ」と声が言った。

栞は反射的に「おやすみ」と返していた。自分の口が勝手に動いたのだ。そして気づいた——返事をしたことで、声は自分自身の内側からも聞こえるようになったことに。壁の向こうの声は、もはや外からではなく、自分の頭の中で反響している。

このマンションは、四十八の部屋を隔てる壁など、最初から存在しなかったのだ。すべては同じ空間だ。ただ——それを認知する「私」の視点が、四十八通りに分裂しているだけだ。

今夜も、声は聞こえる。

「私も、眠れない」

返事をしてはいけない。返せばまた増える。四十八の私が、四十八の壁の向こうで同じ言葉を呟いている。

そして——そのすべての私が、鏡を見るたびに、一人ずつ減っているような気がしている。

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