眠れない夜が三週間続いた頃、スマートフォンのアプリストアで「DreamSync(ドリームシンク)」というアプリを見つけた。評価は星4.8。二千件を超えるレビューのほとんどが「人生が変わった」「初めて朝まで眠れた」と絶賛していた。睡眠障害に悩む者にとって、藁にもすがる思いというのは、こういう状態を言うのだろう。
仕組みはシンプルだった。イヤホン型のデバイスを装着して眠ると、アプリが脳波を解析し、睡眠が深い「ドナー」と呼ばれる他者の波形と同期させる。いわば「他人の熟睡を借りる」技術だ。ドナーは匿名で、AIが最適な波形を自動選択する。月額二千八百円。病院の睡眠外来の十分の一以下の値段だった。
初めて使った夜、私は驚くほど深く眠れた。翌朝、目覚ましが鳴るまでの七時間、一度も目が覚めなかった。アプリのログには「同期成功率97%」と表示されていた。すごい——そう思った。本当にすごいと思ったのだ。
問題が始まったのは、五日目の夜だった。
夢を見た。いや、正確には——同じ夢を、何度も見た。私は見知らぬ部屋に立っていた。壁も床も天井も、すべてが白く、窓も家具も何もない。ただ一つだけ、正面の壁に灰色の鉄の扉があった。古びていて、表面には細かい傷が無数についている。誰かが——何かが——内側から何度も引っかいたような跡だった。
夢の中で、私はその扉の前に立っていた。触れてはいけないと分かっていた。それでも、手が勝手に伸びる。ドアノブに指が触れる——その瞬間、向こう側から「コツン」と音がした。ノックだった。誰かが、扉の向こうから、私を呼んでいる。
目が覚めた。午前三時十七分。心臓が早鐘を打っていた。汗でシーツがぐっしょり濡れている。隣で寝ている妻は、穏やかな寝息を立てていた。ただの夢だ——自分に言い聞かせた。ただの悪夢に過ぎない。アプリのせいではない。夢なんて誰でも見る。
しかし、翌日の夜も、その次の夜も、同じ夢を見た。同じ白い部屋。同じ鉄の扉。そして——ノックの音が、少しずつ大きくなっている。最初は「コツン」だった。それが「ドン」になり、「ドンドン」になり——昨夜は、扉全体が震えるほどの轟音だった。
不安になって、アプリのレビューをもう一度読み返した。星5の絶賛レビューの中に、ひとつだけ、異様な一文を見つけた。
「白い部屋の扉、開けちゃダメ。あれはドナーじゃない。」
背筋が凍った。レビューを遡ると、似たような警告がちらほらと埋もれている。「夢が同期してる」「同じ夢を見てる人がいる」「あの扉の向こうにいるのは——」。どのレビューも、投稿から数時間以内に削除されていた。運営が消しているのか、それとも——投稿者自身が、何らかの理由で消えているのか。
検索をかけると、海外の匿名掲示板に「DreamSync Nightmare Room」というスレッドが立っていた。百人以上のユーザーが、まったく同じ夢——白い部屋、鉄の扉、内側からのノック——を報告している。そして、ある共通点が浮かび上がった。
ノックの回数が、同期を続けた日数と一致する。三日目は三回。五日目は五回。七日目——。
私は今夜が七回目の同期だった。
スレッドの最後の書き込みは、あるユーザーによるものだった。「今夜、扉が開いた。中から手が出てきた。すごく細くて、白くて、指がやけに長い手。俺の手首を掴んだ。現実の手首に、まだ感触が残ってる。アプリを消しても消しても、アイコンが戻ってくる。助けて。」
その書き込みは、三日前で止まっていた。
私はすぐにアプリをアンインストールした。デバイスもゴミ箱に捨てた。もう使わない。これで終わりだ——そう思った。
その夜、私は夢を見た。白い部屋。鉄の扉。そして——扉が、わずかに開いていた。隙間から、暗闇が覗いている。その暗闇の中から、かすかな呼吸音が聞こえる。ヒューヒューという、か細い、しかし確かな息遣い。
アプリは、もう私のスマートフォンには入っていない。それでも夢は来る。なぜなら——同期は、もう完了しているからだ。あの扉の向こうにいる「何か」と、私の睡眠は、もう切り離せない。
今朝、目が覚めると、左手首にうっすらとした痣ができていた。細長い指の形に、五本の線がくっきりと。
今夜、私はまた眠らなければならない。誰もがそうするように。そして——あの扉が、昨日より少しだけ、大きく開いていることを、私はもう知っている。
あなたがもし、眠れない夜に「DreamSync」を見つけたなら——思いとどまることを勧める。ドナーと表示されている波形は、人間のものではない。そして、あの扉の向こうにいる何かは、あなたの睡眠を「借りている」のではない。あなたの覚醒を——待っているのだ。