田村浩一、三十四歳。都内の広告代理店に勤める平凡なサラリーマン。妻の美咲と二人暮らし。特に問題のない日常だった——あのクレジットカードの明細を見るまでは。
「田村さん、先週の木曜日、いいランチでしたね」
同僚の佐藤にそう声をかけられたのは、六月の終わりだった。木曜日——その日、田村は風邪で会社を休んでいた。熱にうなされ、一日中ベッドに横たわっていたのだ。
「いや、俺は休んでたけど」
佐藤は不思議そうな顔をした。「何言ってるんですか。一緒にイタリアン行ったじゃないですか。ワインまで頼んで」
田村は笑って流した。佐藤の勘違いだろう、と。
しかし一週間後、クレジットカードの明細に「新宿 イタリアンレストラン 八、四〇〇円」という項目を見つけた時、背筋が凍った。日付はまさに、彼が風邪で寝込んでいた六月二十日だった。
カード会社に電話をかけた。不正利用の疑いがある、と。しかし担当者は淡々と答えた。「ご本人様による暗証番号でのご利用が確認されております。また、防犯カメラの映像も——ご本人様と一致しております」
自分が使った覚えのない金。自分が行った覚えのない場所。しかし証拠はすべて、田村浩一がそこにいたことを示している。
その週末、妻の美咲が妙なことを言った。
「浩一さん、最近別人みたい」
「どういう意味だよ」
「だって、この前は急に優しくなったかと思えば、昨日はまるで知らない人みたいに冷たくて——」
田村は何も言えなかった。優しくした記憶も、冷たくした記憶も、どちらもなかった。
彼は自分のスケジュール帳を開いた。空白だらけのカレンダーに、なぜか書き込みが増えている。自分の筆跡で。しかも——「一五時 営業部と打ち合わせ」「一九時 美咲と待ち合わせ 銀座」——どれも、まったく記憶のない予定だった。
田村は震える手でスマートフォンの位置情報履歴を確認した。六月二十日——発熱して寝込んでいたはずの日の午後一時、彼のスマートフォンは確かに新宿のイタリアンレストランを示していた。そしてそれだけではない。記憶にない日々のすべてに、別の場所を示す位置情報のピンが立っていた。
誰かが自分のスマートフォンを使っているのか——いや、違う。美咲は言った。浩一さんが確かにスマホを持って出かけていた、と。
田村は探偵を雇った。対象は——自分自身だ。依頼から三日後、探偵からメールが届いた。添付されていた写真を見て、田村は息を呑んだ。
そこには、自分とまったく同じ顔の男が、見慣れないスーツを着て、都内のカフェで笑っていた。同じ顔、同じ体型、同じしぐさ——しかし、どこか違う。写真の中の男は、田村には決して出せない自信に満ちた表情を浮かべていた。肩の力が抜け、話し相手の目をしっかり見て、自然に笑っている。それは——田村がずっとなりたかった自分、でもなれなかった自分の姿だった。
「この男はあなたです」と探偵は言った。「指紋もDNAも一致します。双子の記録はありません。つまり——この男は、生物学的にあなた本人です」
その夜、田村は自宅の洗面所の鏡の前に立った。鏡の中の自分を見つめる。疲れた顔。くすんだ目。自信のない表情。こんな自分を——誰が欲しがるだろうか。
「お前は誰なんだ」
鏡に向かって呟いた。答えが返ってくるはずはなかった。
しかし——鏡の中の田村の口元が、ほんの少しだけ持ち上がった。それは笑みだった。田村自身は、笑っていない。
「気づいたか」
鏡の中の自分が言った。田村の口は動いていない。
「お前は俺の——不在証明だ」
田村は悲鳴を上げて後退った。鏡の中の自分は動かない。ただ、静かに笑っている。
翌朝、美咲は何事もなかったように朝食を用意していた。田村は何も言えなかった。昨夜の出来事を話す勇気がなかった。ただ——美咲が彼の顔を見て、こう言った。
「やっぱり——今日の浩一さんは『違う』ね」
田村は理解した。自分が「本物」かどうかを決めるのは、自分ではないのだ。周りの人間が認めるほうが「本物」で、認められないほうが「偽物」になる。そして——ここ数週間、会社の同僚も、友人も、そして美咲さえも、もう一人の田村のほうを「本当の田村浩一」として受け入れ始めている。
写真の中の自信に満ちた自分。あれが——本当の自分だと言われたら、誰が反論できるだろうか。
今夜も、もう一人の自分がどこかで動いている。田村が眠っている間も、休んでいる間も、怯えている間も——彼は決して休まない。ゆっくりと、確実に、田村の人生を乗っ取っていく。
田村は気づいた。自分が「本物」であることを証明できるものは、もはや何も残っていない。クレジットカードも、防犯カメラも、位置情報も、そして妻の記憶さえも——すべてが、もう一人の自分を支持している。
鏡を見るのが怖い。そこに映るのが、果たして自分なのか——それとも、すでに「向こう側」の自分なのか。もう区別がつかない。
今朝、目が覚めたら、隣で眠る美咲が言った。
「おはよう、浩一さん。昨日はどこに行ってたの?」
田村は答えられなかった。昨日は——一日中、この部屋にいたはずだ。なのに美咲は、自分が外出していたと言う。
そして今、美咲がスマートフォンを差し出した。画面には、昨夜撮影された写真——レストランで笑う田村と美咲のツーショット。
「楽しかったね。また行こう」
田村は笑顔を作った。写真の中の自分と同じ笑顔を。うまく笑えているかどうか——自分では、もうわからなかった。