蝉時雨

夏の怪談 |2026.07.12

俺は、夏が嫌いだった。

理由はひとつ——蝉の声だ。七月に入り、アスファルトが陽炎に揺れる季節が巡ってくると、街のあちこちで蝉が一斉に鳴き始める。ミーンミンミン。ジージージー。耳を劈く大合唱は、誰の頭の中にも容赦なく入り込む。しかし俺にとって蝉時雨は、単なる騒音ではなかった。

蝉の声の中に、かすかに、別の音が混ざっているのだ。

最初に気づいたのは中学生の夏だった。塾からの帰り道、いつもの住宅街を歩いていた時のこと。午後五時を過ぎてもなお、夕陽に照らされた街路樹からは容赦のない蝉しぐれが降り注いでいた。耳を塞ぎたくなるような騒音の中——ふと、その裏側から、誰かの声が聞こえた気がした。

「おにいちゃん」

振り返っても誰もいない。聞き間違いだと思った。蝉の鳴き声が偶然、人の声のように聞こえただけだ——そう自分に言い聞かせた。

しかし、その「聞き間違い」は夏が来るたびに繰り返された。高校二年の夏、大学三年の夏、就職して東京のワンルームに引っ越した二十五の夏——季節が巡り、蝉が鳴き始めるたびに、あの声は大きくなっていった。

「おにいちゃん、こっちだよ」

「まだ覚えてる?」

「早く、早く来て」

三十歳になった今年の夏、声はついに蝉時雨の音量を超えた。朝の通勤電車の中でも、オフィスのデスクでも、深夜の自室でも——外に蝉がいなくても、頭の中で声が響くようになっていた。

俺は休暇を取って、実家のある田舎町へと向かった。新幹線を降り、ローカル線に乗り換え、さらにバスに揺られる。山あいの小さな町。二十年ぶりの故郷は、記憶の中のそれよりずっと小さく、静かだった。

蝉時雨が、山全体を震わせていた。

「おにいちゃん」

声に導かれるまま、俺は歩いた。かつて通学路だった細い坂道を下り、古い石橋を渡り、草の生い茂った土手を抜ける。気づけば、町はずれの小さな川のほとりに立っていた。

途端に、蝉の声がぴたりと止んだ。

川のせせらぎだけが残る静寂の中、俺は思い出した。

俺には妹がいた。五つ下の、絵を描くのが好きな、いつも半ズボンで駆け回っていた妹——名前は、美咲。

二十年近く忘れていた。いや、忘れようとしていた。なぜなら——

あの夏の日、小学五年の俺は、五歳の美咲の手を引いて、この川に遊びに来た。水遊びがしたかった。親には内緒で、二人だけで。川の真ん中の大きな石の上に座り、足を水に浸して——ふと目を離した、ほんのわずかな隙に、美咲の姿が消えた。

慌てて水面を見ると、沈んでいく小さな後ろ姿が見えた。手を伸ばした。しかし掴めなかった。俺は泣き叫びながら岸に上がり、近くの民家に助けを求めて走った。大人たちが集まり、消防が来て、一時間後——美咲は川底から引き上げられた。もう、動かなかった。

両親は俺を責めなかった。「お前のせいじゃない」と言った。でも、俺は知っている。俺が目を離したからだ。俺がちゃんと見ていなかったからだ。俺のせいで——美咲は死んだ。

その記憶を、俺は二十年間、意識の奥底に沈め続けてきた。思い出すたびに、自分を許せなくなるから。

「おにいちゃん」

声が背後から聞こえた。振り返ると——そこに美咲が立っていた。五歳のままの姿で。濡れた髪から水が滴り、白い肌は川底の冷たさをそのままに、しかしその顔は穏やかな笑みを浮かべていた。

「やっと来てくれたね」

俺は言葉を失った。震える声で、ようやく絞り出した。「……美咲。ごめん。俺のせいで——!」

美咲は首を横に振った。

「違うよ。わたし、おにいちゃんに謝ってほしくて呼んだんじゃないの」

「じゃあ、なんで……」

「だっておにいちゃん、ずっとひとりぼっちだったから」

美咲の言葉に、俺ははっとした。そうだ——あの日以来、俺は誰にも心を開かずに生きてきた。友達を作らなかった。恋愛も避けた。いつもどこかで、自分には幸せになる資格がないと思っていた。

「もうやめていいんだよ」と美咲は言った。「わたしはちゃんとここにいるから。おにいちゃんが忘れなければ、それでいいの」

俺はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。二十年分の涙が、止めどなく溢れた。

どのくらいそうしていただろうか。顔を上げた時、美咲はもういなかった。蝉時雨が、再び鳴り始めていた。でももう——怖くはなかった。

東京に戻った今も、夏になると蝉は鳴く。その中に、あの声はもう聞こえない。けれど俺は、蝉時雨を聞くたびに思い出す。あの川辺の夏の日を。そして、美咲が最後に見せた笑顔を。

俺は今年の夏、初めて蝉の声が——うるさいとは思わなかった。

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