これは、友人の弟——仮にTと呼ぼう——から間接的に聞いた話である。Tは都内、世田谷区の下町でコンビニエンスストアの夜勤アルバイトをしている。駅から徒歩十分ほど、古い戸建てと小さなアパートが肩を寄せ合うように建ち並ぶ静かな住宅街の一角。午前零時を過ぎると客足はぱたりと途絶え、明け方まで一人で黙々と品出しとレジ打ちをこなす、いたって平凡なバイトだという。大学生のTにとって、時給の良い夜勤は生活を支える大切な収入源だった。
Tが異変に気づいたのは、夜勤を始めて三ヶ月ほど経った十一月の深夜だった。季節は晩秋から初冬へと移り変わる頃。深夜の外気はすでに肌を刺す冷たさで、自動ドアが開くたびに店内に冷たい風が流れ込んだ。
時刻は午前三時三十三分。普段なら誰も来ない時間帯だった。しかし自動ドアの開く音——カラコロ、という軽快なチャイム——が鳴って、Tは条件反射で「いらっしゃいませ」と声をかけた。顔を上げると、そこにはベージュのトレンチコートを着た中年の女性が立っていた。年の頃は五十代半ばだろうか。短い髪に、くたびれた印象のするコート。十一月には少し薄着に見えた。彼女はうつむき加減で、ゆっくりとした足取りで店内へと歩いていく。
女性はまっすぐに店の奥——インスタント麺とレトルト食品、缶詰が並ぶ通路へと進んだ。Tは「ああ、夜食か何かだろう」と思い、特に気にも留めなかった。しかし五分経っても十分経っても、女性がレジに来る気配はない。店内はシンと静まり返っている。不思議に思って通路を覗いてみると、女性は商品棚の前に立ったまま、微動だにしていなかった。手には何も持っていない。買い物かごさえも。ただ、じっと棚の一点——たぶん、カップ麺の列だろうか——を見つめているだけだった。
背中越しに声をかけるのに、少し勇気が要った。
「あの……何かお探しでしょうか」
女性はゆっくりと振り返った。蛍光灯の白い光の下で、その顔はひどく青白く見えた。無表情——むしろ、表情というもの自体を失ってしまったかのような顔だった。何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にはならず、かすかに首を振ると、そのまま自動ドアの方へ歩き出した。レジを通らず、何も買わず。カラコロ、という軽い音を残して、自動ドアの外——十一月の闇の中へと消えていった。
「変わった人だな」
Tはそう思っただけだった。深夜のコンビニには、少し変わった客はつきものだ。しかし翌日の夜も、そのまた翌日も、女性は現れた。そしてTはすぐに気づく——彼女が来店する時刻が、毎回きっかり午前三時三十三分だということに。一分の狂いもなく、自動ドアのチャイムが鳴り、ベージュのコートを着た彼女が姿を現す。いつも同じ足取りで、同じ通路へ行き、同じ場所に立ち、約三分間だけじっとした後、何も買わずに去っていく。
Tはその正確さに薄気味悪さを覚え始めた。一週間、二週間——いや、三週間だ。欠かさず同じ時刻に現れる客。終電を逃した酔客でもなければ、深夜の散歩が趣味というわけでもないだろう。これは偶然ではない。何かの嫌がらせか、あるいは認知症を患った近隣の住人か——そう考えたTは、ある夜、こっそりスマートフォンを取り出して、通路に立つ女性の後ろ姿を撮影してみることにした。
シャッター音が鳴らないように、マナーモードに切り替えて注意深くカメラを構える。しかし——ファインダーを覗いた瞬間、Tの手が凍りついた。画面の中に、女性の姿が映っていなかったのだ。最初は手ぶれかピントの問題かと思い、何度も位置を変え、角度を変えて試した。だが、肉眼では確かにそこに——三メートル先の通路に——立っているのに、スマートフォンの画面には誰も映らない。ただの商品棚と、白い蛍光灯の光だけがそこにあった。
今度は、店の防犯カメラを確認してみることにした。レジカウンターの隅にある小さなモニターには、店内四カ所のカメラ映像が切り替え表示されている。Tは通路を映すカメラ——三番カメラ——の画面をじっと見つめた。冷や汗が背中を伝った。
防犯カメラにも、彼女は映っていなかった。
誰もいない通路が、ただ淡々と映し出されているだけだった。なのに顔を上げると、三メートル先に、あの女性が立っている。三十秒前とまったく同じ姿勢で、まったく同じ場所に。
その晩、Tは恐怖のあまり店の外に飛び出し、先輩の夜勤スタッフであるMに電話をかけた。Mはこの店で四年ほど働いているベテランで、普段は火曜と木曜の夜勤を担当している。深夜三時過ぎの電話に、Mは最初いぶかしんだが、事情を話すと電話の向こうでしばらく沈黙が続いた。
「……T、その女性だけどさ」Mの声は妙に低く、震えていた。「見ないほうがいい。絶対に、話しかけちゃダメだ。目も合わせるな」
Mは重い口調で、三年前の十一月にこの店で起きた出来事を語り始めた。
三年前の十一月——正確には十一月十五日の深夜。ひとりの女性客が、この店のインスタント麺の通路で突然倒れた。心臓発作だった。カップ麺を手に取ろうとして棚に手を伸ばしたその瞬間、女性は胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。しかし深夜の時間帯。当時のアルバイト店員はバックヤードで翌日分の検品作業に追われていて、店内の異変にまったく気づかなかった。店内には他に客もおらず、女性は誰にも看取られることなく、冷たい床の上で息を引き取った。
発見されたのは、それから五時間後——朝八時のことだった。出勤してきた店長が、通路にうつ伏せに倒れている女性を見つけた。救急車は呼ばれたが、すでに手遅れだった。女性はベージュのトレンチコートを着て、買い物かごを握りしめたまま、硬直していたという。
死亡推定時刻——午前三時三十三分。
Tは言葉を失った。Mの話は、あの女性客の特徴とあまりにも一致していた。年齢も、服装も、立ち位置も。そして何より——時間だ。
「あのさ、T」とMは最後に付け加えた。「俺も最初は気のせいだと思ってたんだ。でももう三年になる。彼女は毎日、あの時間にここに来てるよ」
電話を切った後、Tは重い足取りで店内に戻った。三時三十三分はとっくに過ぎていた。通路には誰もいなかった。ただ、あの場所だけが——インスタント麺の棚の前の床だけが——なぜかひんやりと冷たく感じられた。
それ以来、Tは夜勤のたびに三時三十三分を意識するようになった。不思議なことに、怖さよりも先に浮かぶのは「この人は何かを言いたいのではないか」という思いだった。買い物の途中で突然命を奪われた女性。誰にも気づかれず、誰にも看取られず——彼女はまだ、この店にいるのだろうか。
ある晩、Tは意を決した。午前三時三十分、あらかじめインスタント麺の通路に立ち、彼女を待つことにしたのだ。三十二分、三十三分——自動ドアが開く音。振り返ると、あの女性が立っていた。いつもと同じベージュのコート。いつもと同じ疲れた表情。しかしその日、彼女は違った。彼女は伏せていた顔を上げ、Tの目をまっすぐに見たのだ。
そして、かすかに、ほんのかすかに——口元がほころんだように見えた。
次の瞬間、女性の姿は通路の突き当たり——バックヤードへ続くドアの向こうへと、音もなく吸い込まれるように消えた。Tが慌ててバックヤードのドアを開けると、そこはただの倉庫だった。段ボールと在庫の山、蛍光灯の白い光。誰もいない。しかし——部屋の隅のロッカーの上に、Tは初めて気づくものがあった。小さな写真立てと、枯れた花が一輪。そしてその前に供えられた、賞味期限の切れたカップ麺。店長がひっそりと置いた供え物だということは、すぐにわかった。
今でもTは、あの店で夜勤を続けている。三時三十三分になると、ふと通路の奥を見てしまう癖がついたという。そして時々、こう言うのだ——「前より少しだけ、近くに立ってくれるようになった気がする」と。それが進歩なのかどうかは、誰にもわからない。
誰もいないはずの通路で、今日も誰かが、静かにカップ麺の棚を見つめている。