その家が市場価格の三分の一で売りに出されていると知った時、佐伯健太は運命を感じた。八王子の静かな住宅街、築二十年の二階建て。手を入れれば十分住める。妻の美咲は「話がうますぎる」と眉をひそめたが、不動産屋は「前の持ち主が急に引っ越しただけですから」とだけ言って、それ以上は何も語らなかった。健太は気にしなかった。都内のワンルームで払っていた家賃より安いローンで、庭付きの家が手に入るのだ。迷う理由はなかった。
引っ越しから二週間が過ぎた土曜日、健太は屋根裏に上った。夏に向けて断熱材を張り替えるつもりだったのだ。埃っぽい天井裏を這いずり回っていると、梁の陰にダンボール箱がひとつ、置き去りにされているのを見つけた。ガムテープで厳重に封がされ、側面には黒のマジックで「記録」とだけ書かれている。
箱を開けると、中にはカセットテープがぎっしり詰まっていた。数えてみると四十七本。すべてのテープに日付が書かれ、その下に「一日目」「二日目」——安っぽいカセットレーベルに、几帳面な女性の字で通し番号が振られていた。日付はおよそ三年前の六月から始まっていた。
「これ、前の住人の?」
リビングに箱を持ち降ろした健太に、美咲は嫌な顔をした。
「気持ち悪いから捨てようよ」
「ちょっとだけ聴いてみないか。何が入ってるか気になるだろ」
健太は押し入れの奥から、大学時代に使っていたラジカセを引っ張り出した。美咲は渋々うなずき、二人はソファに並んで座った。健太が一本目のテープ——「一日目」——を差し込み、再生ボタンを押した。
最初はヒスノイズだけが流れた。やがて、遠くから子どもの笑い声が聞こえてきた。母親らしい女性の声が「ご飯よ」と呼びかけ、父親のくぐもった返事がそれに応える。食器の触れ合う音、テレビのニュース番組、風呂場の水音。どこにでもある、あたたかな家族の日常だった。
「なんだ、普通じゃん」健太は肩をすくめた。「日記代わりに録音してたのかな」
ところが、七日目あたりから録音の質が変わり始めた。家族の会話の背後に、かすかな雑音が混ざるようになった——誰かが天井を歩くような、ミシリ、ミシリという微かな軋みだった。美咲は思わず天井を見上げたが、もちろん何もいない。
十四日目。母親の声が震えていた。
「健太さん、あの音、また昨夜もしたの」
健太は背筋が凍るのを感じた。テープの中の母親が、父親を「健太さん」と呼んでいたのだ——自分と同じ名前で。偶然だ、と自分に言い聞かせた。ありふれた名前だ。
美咲は無言で健太の腕にしがみついていたが、健太はテープを止められなかった。二十日目。前の住人たちは、屋根裏でダンボール箱を見つけていた。テープの中の「健太」の声が言う。
「これ、何だと思う? 四十七本も入ってる」
その後に続く妻の声——「気持ち悪いから捨てようよ」
健太と美咲は、同時に顔を見合わせた。一字一句、まったく同じだった。つい十分前に、このリビングで交わしたばかりの会話と。
二十五日目。録音の中の家族は、さらに前の住人の声を聴いていた——そしてその前の住人も、屋根裏でテープを見つけ、同じように聴き始めていた。
「これ、同じパターンがずっと続いてるんだ」テープの中の「健太」が言った。「まるで、ここに住んだ全員が、同じテープを聴いてるみたいだ」
三十日目。録音はもはや過去の記録ではなかった。前の家族は、まだ起こっていない会話を聴き始めていた。テープの中の「健太」が叫ぶ。
「おかしいだろ! なんで俺たちの声が入ってるんだ、まだ話してないことなのに! 美咲、これ、お前が——」
美咲。テープの中の妻の名前も、美咲だった。
「もうやめて」美咲が泣きそうな声で言った。「やめて、健太」
だが健太の手は、自動的に最後のテープを掴んでいた。四十七本目。ラベルに書かれた日付——明日の日付だった。
「聴かないで」
健太は再生ボタンを押した。
ノイズ。そして——自分たちの声。
「『美咲、もうやめて』——違うだろ、こう言うんだよ」
低い、聞き覚えのない男の声だった。テープの中の美咲が悲鳴を上げる。子どもの泣き声。何かが倒れる音。そして——
「お前たちも、記録を残す側になるんだ」
低い声が、すぐ耳元で囁くようにテープから流れた。健太はラジカセを叩きつけるように止めた。二人の呼吸だけが、静かなリビングに響いた。
その夜、二人は一睡もできなかった。朝になり、健太がリビングへ降りていくと、テーブルの上にものがあるのが目に入った。昨晩は何も置いていなかったはずだ。
新しいカセットテープだった。ラベルには今日の日付と、「一日目」の文字。
屋根裏から、かすかにミシリ、という音が聞こえた。