「旧校舎の東階段、昼間は十二段だけど夜になると十三段になるんだって」
放課後の教室で、陸上部のマネージャーをしている沢口が言った。窓の外はもう暗く、部活を終えた私たちは帰り支度をしていた。聞き流そうと思ったが、沢口の声は妙に真剣だった。
「数えたやつは、消えるらしいよ」
私は——綾野真由、高校二年——その話を鼻で笑った。「またそんな噂。どこの学校にもあるやつでしょ」
「でもさ」沢口は声を潜めた。「先月転校した水城、覚えてる? あいつ、転校する前の日、旧校舎で階段数えてたらしいんだ」
水城みずき。中学からの友人で、同じ陸上部だった。新学期が始まって二週間で突然転校した。連絡もなく、SNSも消えた。あれは変だった。
「転校の理由なんて家庭の事情だろ」私はランドセルならぬリュックを背負った。「じゃあね」
教室を出て廊下を歩き始めたとき、ふと気づいた。職員室に寄って顧問に提出する記録用紙を忘れていた。溜め息をついて、私は東階段の方へと足を向けた。職員室のある一階までは、この階段が一番近い。
階段の入り口に立った瞬間、違和感があった。蛍光灯の一本が切れかけていて、チカチカと点滅している。天井の隅には黒い染みが広がり、壁のペンキはところどころ剥がれていた。昼間は気にもとめなかったのに、夜になるとまったく別の場所のように感じられる。
一段目。二段目。三段目。
無意識に数え始めていた。自分でもなぜ数えているのかわからなかったが、足を踏み出すたびに数字が頭に浮かぶ。六段目、七段目——。
十一段目。十二段目。
踊り場。私はほっと息をついた。ちゃんと十二段だ。くだらない噂に惑わされていた自分が恥ずかしかった。
その時だった。
——コツン。
上の階から、足音が聞こえた。誰かが階段を降りてくる。それだけなら珍しくもない。だが、その足音の主は——数えていた。
「……三……四……五……」
聞き覚えのある声だった。柔らかくて、少し高くて、語尾がふわっと上がる話し方。紛れもなく、水城みずきの声だった。
「……十……十一……十二……」
足音が止まった。声も止まった。私は踊り場に立ち尽くしたまま、呼吸すらできない。上の階から、かすかな囁きが降りてきた。
「……十三」
私は走った。職員室のことなど忘れて、階段を駆け下り、下駄箱まで全力で走り抜けた。外に出て振り返ると、旧校舎の窓はすべて暗かった。でも三階の東端の窓だけが、ぼんやりと青白く光っているように見えた。
次の日、私は学校を休んだ。熱があると嘘をついた。布団の中で、水城の声を思い出していた。彼女は本当に転校したのか。それとも——。
昼過ぎ、スマートフォンが震えた。差出人は表示されていない。メッセージは一行だけ。
「ざんねん。まだ十二だね」
送信者を調べようとしたが、番号もIDも表示されない。ただのテキストが、画面に浮かんでいるだけだった。
三日後、私は学校に戻った。何も変わっていないように見えた。でも違った。昼休み、一人で東階段の前に立った。人通りはある。「十二段でしょ」と自分に言い聞かせて、一段ずつ登る。一、二、三……十一、十二。やっぱり十二段だ。昼間は。
放課後、私は図書室に向かった。学校の郷土資料コーナーには、この学校の古い記録が保管されている。卒業アルバムでもなく、新聞の切り抜きでもなく——私は「事故記録」を探していた。昔の学校にはどこでもある、表に出ないファイルだ。
三十分ほど探して、ようやく見つけた。四十五年前のファイルだった。旧校舎(当時は新校舎だった)の建設中、東階段の基礎部分から地盤が緩み、工事関係者が一人、生コンクリートの基礎に転落した。遺体は掘り出せず、そのまま階段の下に——。
資料を閉じた。それ以上は読めなかった。でも一つだけ、目に焼きついた数字があった。事故が起きた日付。
今日と同じ、七月十六日だった。
その夜、私は旧校舎に残った。最終下校時刻のチャイムが鳴り、警備員が見回りを終えるのをトイレでやり過ごした。廊下の非常灯だけが緑色に光る暗闇の中、私は東階段の前に立った。
一段目。二段目。三段目。
段数を心の中で数えながら、ゆっくりと足を進める。踊り場の窓から月明かりが差し込み、壁に自分の影が長く伸びている。八段目、九段目。手すりが冷たく、ひんやりと湿っていた。
十一段目。十二段目。
踊り場。さっきと同じだ。十二段で終わっている。私は安堵して、手すりから手を離そうとした。その時——
目の前の壁が、歪んだ。
いや、壁ではない。空間そのものが、ゆるやかに波打っている。踊り場の先に、もう一段——十三段目が、薄ぼんやりと浮かび上がった。それはコンクリートの階段のようでいて、表面は人の肌のように柔らかく、ほのかに温かい光を放っていた。
私はその段に、足を乗せた。
世界が裏返った。上も下もなくなり、私は灰色の空間に立っていた。そこは階段でも廊下でもない——階段と階段の「あいだ」にあるべきではない場所だった。
遠くに人影が見えた。何人もいる。みんな制服を着ている。その中に——水城みずきがいた。
「真由も来たんだ」
水城は笑っていた。でも目は笑っていなかった。彼女の足元を見ると、靴がなかった。いや、足そのものが、床に溶け込むように薄くなっている。
「ここに来た人はね、ゆっくりと薄くなっていくの。最初は靴、次に足、それから——」
水城の膝から下は、もうほとんど透けていた。
「でもね、十三段目に乗った者は、次の誰かを呼べるんだって。私が真由を呼んだ」
背筋を冷たいものが走った。あの足音。あのメッセージ。すべて水城だった。
「ごめんね」水城が言った。「でも一人じゃ、こわかったから」
私は叫んだ。声にならない声で。そして——目が覚めた。
保健室のベッドの上だった。朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。養護教諭が「夜中に旧校舎の階段で倒れてたのよ」と言った。私は無言で起き上がり、保健室を出た。足はちゃんとある。靴も履いている。すべて夢だったのだろうか。
私は東階段の前に立った。朝日が窓から差し込み、階段はただの階段に見えた。一段目。私は登り始めた。二段目、三段目。自分でもなぜ数えているのか、わからなかった。でも足が止まらない。
十一段目。十二段目。踊り場。
ふと窓ガラスに目をやると、そこには——私の姿が映っていた。でも、その私は立ち止まっていなかった。
ガラスの中の私は、口を動かしていた。
「十三」
そして、ガラスの中の私が、こっちを見て笑った。
その時、気づいた。私が保健室で目覚めた時、私は本当に戻ってきたのだろうか。それとも水城の代わりに、私がここに残ることになったのだろうか。
今も、旧校舎の東階段には奇妙な噂が残っている。昼間は十二段、夜になると十三段。そして数えた者は消える——という噂だ。
ああ、でも最近、新しい噂が加わったらしい。
「十四段目がある」
誰かがまた、数え始めたのだ。