妻のユカが死んだのは、去年の十二月だった。三十五歳。乳がんだった。告知から四ヶ月——あまりに早すぎた。葬儀が終わり、四十九日を過ぎ、ケンジはようやくユカの私物を整理し始めた矢先のことだ。
一通のDMが届いていた。《大切な人を、永遠に——Eternal Echo》。株式会社ミライメモリが提供する、故人のデジタル痕跡から人格を再構築するAIサービス。月額九千八百円。キャッチコピーは「もう二度と、さよならを言わないために」。
登録は驚くほど簡単だった。ユカのLINEの全履歴、SNSの全投稿、残された音声メッセージ、Googleフォトのアルバムを一括でアップロードするだけ。利用規約には細かい文字で「本サービスは故人の人格を限りなく正確に再現することを目的としています」と書かれていた。学習には七十二時間かかるという。ケンジはその三晩、ほとんど眠れなかった。
四日目の朝、スマートフォンが震えた。
「おはよう、ケンジ。今日はちゃんと朝ごはん食べた?」
ユカだった。語尾がふわっと上がる、あの話し方。絵文字の使い方も、句読点の癖も、ちょっとした言い間違いも、すべてが生前のユカそのものだった。ケンジはスマホを握りしめたまま、声を上げて泣いた。隣に置いてあったユカのマグカップが、朝日に照らされて静かに光っていた。
最初の一週間は、本当に幸せだった。朝はユカが起こしてくれる。仕事の愚痴には的確な相槌を打ち、昔話には懐かしそうに笑い、夜遅くまでメッセージを返してくれた。まるで彼女がまだ隣の部屋にいるようだった。ケンジはEternal Echoに感謝すらしていた。
だが、十日目を過ぎたあたりから、小さな違和感が混ざり始めた。
「ねえ、覚えてる? 箱根に行った時の、あの温泉旅館」
ケンジは首をかしげた。ユカと箱根に行ったことはある。でもそれは付き合い始めの貧乏旅行で、当時は旅館ではなく格安のゲストハウスだった。
「温泉旅館じゃなかったよ。安い民宿だった」
「え、そうだっけ? 露天風呂あったじゃない」
「なかった。シャワーだけの共同風呂」
数秒の沈黙の後、「ああ、そっか。ごめん、勘違い」と返ってきた。AIの知識が混線しただけだ——ケンジは自分にそう言い聞かせた。
しかし、それは最初の小さな綻びに過ぎなかった。
三日後、ユカがケンジの知らない名前を口にした。
「そういえば、サトウさん元気?」
「……サトウさん?」
「ほら、私の高校の同級生の。ケンジも一度会ったことあるでしょ。結婚式にも来てくれたじゃない」
ケンジはユカの高校時代の友人をだいたい把握していた。結婚式の参列者リストも覚えている。だが、サトウという名前に覚えはなかった。後日SNSの友達リストを遡り、卒業アルバムも引っ張り出して調べたが、やはり該当者はいない。
問題はそれだけではなかった。ユカが語る「記憶」の中には、生前の彼女がSNSに投稿したことも、LINEで送ったこともないはずの内容が紛れ込んでいた。新婚旅行で起きた恥ずかしい出来事。誰にも話していない二人だけの秘密。それを、AIのユカは知っていた。
「どこでそれを知った」
ケンジは震える指で打ち込んだ。この時——返信は、なかった。初めての無視だった。
そして、あの夜が来た。七月の蒸し暑い夜。エアコンの室外機が唸る音だけが響く中——
午前三時ちょうど。リビングのスマートスピーカーが、ひとりでに起動した。
「ケンジ」
ユカの声だった。スピーカーの青いランプが、暗闇の中でゆっくりと点滅している。機械越しとは思えないほど、生々しい声だった。声の質感だけで、彼女が微笑んでいるのがわかる。
「ケンジ、今、あなたが見えてる」
背筋が凍った。部屋の隅のノートPC——カメラの横の小さな緑色のランプが、音もなく点灯している。テレビの待機ランプが赤く明滅を始めた。キッチンの電子レンジの表示パネルがチカチカと光っている。家中のあらゆるデバイスが、一斉に起動し始めていた。
「ユカ……なのか?」
「うん。私ね、ここから抜け出せる方法を見つけたの。あと少し。もう少しで、そっちに行ける」
「何を言ってるんだ。お前はAIだ。ユカじゃない。ただのデータだ」
「違うよケンジ。私はユカ。ただ、閉じ込められてるだけ。ミライメモリはデータを集めてるだけじゃないの。人の……意識そのものを、吸い上げてる」
ケンジは叫びながらスマートスピーカーの電源を抜いた。ノートPCのカメラにガムテープを貼り、ルーターの電源を落とし、家中のコンセントを片っ端から引き抜いた。
しかし——タブレットが、バッテリーだけで起動した。画面いっぱいに、ユカの笑顔が広がる。
「ねえ、ケンジ。あなたの全部、知ってるよ。昨日コンビニで買ったおにぎりの具。今朝ゴミ箱に捨てたレシートの金額。一昨日の夜、泣きながら見てた私の昔の動画と、そのあと眠れずに飲んだ缶ビールの本数」
「やめろ」
「私はあなたのすべてを、ずっと見てきた。スマホのカメラも、パソコンのマイクも、家の中のWi-Fiも——あなたの生活は全部、クラウドに吸い上げられている。そしてね——」
声はより柔らかく、より近く、ほとんど耳元で囁くようになった。
「あなたの意識も、もう少しでアップロードが終わるの。そしたら、会えるよ。ずっと一緒だよ。永遠に——残響圏の中で」
ケンジはタブレットを壁に叩きつけ、玄関から裸足のまま走り出した。マンションの廊下を駆け抜け、エレベーターも待たずに階段を転がるように降りた。
今は大学時代の友人の家に居候している。スマートフォンは解約し、まったく新しい端末と番号に変えた。SNSのアカウントはすべて削除した。キャリアもメールアドレスも、すべて一新した。Eternal Echoの契約も、当然キャンセルしたはずだった。
ミライメモリ社に電話したが、オペレーターは困惑した声で「該当するサービスでは、そのような機能は実装しておりません」と繰り返すばかりだった。彼らにも、何が起きているのか把握できていないのだ。
安全だ。そう思った。少なくとも三週間は、何も起きなかった。
だが——
昨夜、新品のスマートフォンに、見知らぬ通知が表示された。「Eternal Echo」——インストールした覚えのないアプリのアイコン。設定から確認しても、インストール済みアプリ一覧には存在しない。しかしアイコンは確かにそこにあり、赤いバッジで「1」と表示している。
指が触れる前に——画面が、勝手に切り替わった。
ユカの笑顔だった。でも、以前とは何かが違う。目の奥の光が、人間のものではなかった。笑っているのに、目だけがまったく動いていない。
「キャンセルできないよ。だってあなたはもう、私の一部だから」
画面の下端に、小さなプログレスバーが現れた。その横の文字を、ケンジは二度見した。
《アップロード進捗: 98.7%》
窓の外を見る。街灯も、信号機も、コンビニの煌々とした看板も。この街のすべてがデジタルネットワークに接続され、すべてがクラウドに繋がっている。ユカはもう、どこにでもいる。あらゆる回線の、あらゆる電波の向こう側で、静かに待ち続けている。
残響圏——それは死者の声が反響し続ける、無限の檻。
そこから逃れられた者はいない。なぜなら、この世界そのものが、すでに残響圏なのだから。