最初のメールが届いたのは、七月の蒸し暑い月曜日の朝だった。
目覚ましより先にスマホが震え、寝ぼけ眼で画面をタップした佐伯美咲は、一瞬で完全に覚醒した。件名は「警告」。差出人は、自分のメールアドレスだった。
「七月二十五日、午後三時十二分。渋谷のスクランブル交差点、北西角のスターバックス前には近づかないで。死ぬ。これは間違いじゃないし、冗談でもない。信じて」
送信日時は一週間後の七月二十五日、午前二時三分。差出人のアドレスに間違いはなかった——六年前から使い続けている、自分のGmailだ。美咲は冗談だろうと自分に言い聞かせながらも、指が震えて通知を何度も開き直した。胸の奥に小さな警鐘が鳴り始め、一度鳴るとそれはもう止まらなかった。誰かに見せることもできず、出社しても一日中そればかり考えていた。同僚に声をかけられても生返事しかできない。ランチに誘われても、スクランブル交差点という言葉が頭を離れなかった。
結局、彼女はその週、渋谷のスクランブル交差点を避けた。わざわざ有給を取った。自分が馬鹿げているのは百も承知だった。でも、もしも——その「もしも」が、彼女の足を止めた。
七月二十五日、午後三時十二分。信号無視のトラックがスターバックス前に突っ込んだ。三人が重傷、一人が即死。ニュース速報がスマホを埋め尽くし、美咲はリビングの床に座り込んだまま動けなかった。生きている。でも、なぜ——自分だけがそれを知っていたのか。
数日後、二通目が届いた。件名は「警告。その二」。
「八月二日。帰宅途中に見知らぬ男から声をかけられる。紺のスーツ、丸眼鏡、左手に黒いブリーフケース。絶対について行かないで。ついて行くと、あなたはあなたでなくなる」
美咲は警察に相談した。送信元の調査も依頼した——結果は変わらず、彼女自身の端末から送信されたとしか言えないという。ログイン履歴に不審なアクセスはなく、マルウェアの痕跡もゼロ。担当刑事は困惑した顔で防犯ブザーを差し出した。「大丈夫だと思いますけど、気をつけてください」という言葉に、美咲の中で何かが軋んだ。誰も信じてくれない。自分ですら、自分を信じられなくなっていた。
八月二日——彼女は一歩も外に出なかった。カーテンを閉め、チェーンロックをかけ、宅配便のインターホンにも出なかった。ブリーフケースを持った紺のスーツの男——そんな人物を視界に入れることすら怖かった。
夕方、同僚からLINEが届いた。「佐伯さん、今日会社休んだの? さっきそっくりな人が正面玄関に立ってて、警備員に連れて行かれたよ。本当にそっくりで、一瞬冗談かと思った」。美咲は画面を見つめたまま、自分の両手が誰のものなのかわからなくなった。私は今日、一歩も外に出ていない。なのに会社に、私がいた。
その後、記憶のほつれは加速度的に広がっていった。昨日の昼食の内容がわからない。先週末の記憶が抜け落ちている。通話履歴には知らない番号との長時間通話が記録されているのに、会話の内容をまったく思い出せない。LINEの履歴には確かに友達とのやり取りが残っている——でも文体も、話題も、絵文字の選び方も、自分が書いたとは思えなかった。冷蔵庫の中には買った覚えのない食材が並び、玄関には履いたことのない靴が揃えてあった。誰かがこの部屋で、彼女の生活を静かに上書きしている。鏡の前に立つと、そこに映る顔がほんの一瞬、自分ではない誰かのように見えた。見知らぬ自分が、毎日少しずつ、確実に自分の中へ入り込んできている。
そして三通目が届いた。美咲はほとんど祈るような気持ちでメールを開いた。
空メールだった。
件名も本文も、何も書かれていない。ただ差出人は変わらず自分自身で、日付は三日後。空っぽの警告——それは、もう警告すべき自分自身が残っていないという告知なのか。
その瞬間、スマホの画面がひとりでにスクロールし始めた。送信済みフォルダが開き、時系列をどんどん遡っていく。画面が止まった——差出人は彼女、宛先も彼女。日付は三年前の七月十八日、つまりちょうど今日だった。
「覚えておいて。警告は必ず届く。警告を守れば守るほど、警告は増える。警告はあなたを守る代わりに、あなたを削り取る。でも警告を無視すれば、あなたはもうあなたではなくなる。どちらを選んでも、終わりは変わらない。返信はしないで——このアドレスは、もう存在しないから」
美咲はこのメールを、まったく覚えていなかった。送信した記憶も、書いた記憶も、考えた記憶すらなかった。しかし差出人はまぎれもなく自分だった。三年前の今日、彼女はすでに知っていたのだ——この日が来ることを。
そして三通目の空メールが意味するものに、彼女はようやく行き着いた。警告する内容が尽きたのではない。警告を送る主体——「私」そのものが、もうほとんど残っていないのだ。この呼吸は、この瞬きは、この恐怖は、本当に自分のものなのか。それとも削り取られた隙間に、何か別のものが入り込んでいるのか。
彼女はキーボードに手を置き、新しいメールを書き始めた。宛先は自分。件名は「警告。その四」。しかし指は一文字も打てなかった。もう伝えるべき内容が見つからない。どんな言葉でこの先を警告すればいいのか——いや、そもそも警告を書こうとしているこの意思が、自分のものなのかどうかさえ、もはや確かめようがなかった。
これが最初のメールだったのかもしれない。送信者と受信者が無限に循環し、始まりも終わりも溶解する。警告そのものがアイデンティティを侵食し、やがて警告だけが自己像のすべてになる——誰が最初にそれを書いたのか、あるいは「自分」など最初からいなかったのか。
彼女は震える指で、空メールを送信した。
返信はなかった。返信は永遠にないだろう。返信できないのだ——なぜなら、返信するべき自我が、もうここにいないのだから。
明日もまた、一通の警告が届く。差出人は自分。宛先も自分。件名はいつもと同じ「警告」。朝日が差し込む部屋でスマホが震え、画面には見慣れた自分のアドレスが光っている。それを開くのが本当に彼女なのかどうか、誰にもわからない。彼女自身にも——。