かくれんぼ

怪談 |2026.07.21

引っ越してきて一週間が過ぎた頃だった。

「ママ、かくれんぼしよう」

四歳の娘、陽菜がにこにこと笑いながら言った。新しいマンションのリビング。引っ越しの疲れもようやく落ち着き、段ボールもほぼ片付いた土曜の午後だった。窓から差し込む日差しの中で、陽菜の小さな影が床に揺れている。

「いいよ」と美咲は言った。「十数えるから、隠れてね」

陽菜は小さな足音を立てて廊下を駆けていった。美咲は目をつぶり、ゆっくりと数え始めた。

「じゅう……きゅう……はち……」

数え終わって探し始めると、陽菜は驚くほど上手に隠れていた。カーテンの裏にはいない。押入れにもいない。リビングのソファの後ろ、ベランダに続く掃き出し窓の隅、キッチンのシンク下——どこにもいない。ようやく見つけたのは洗面所の洗濯機と壁の隙間だった。そんな狭い場所に、よく入れたものだ。

「みーつけた」

陽菜はきゃっきゃと笑いながら這い出してきた。でも、その目はなぜか美咲ではなく、洗面所の天井の隅を見つめていた。

「陽菜、すごいね。誰にそんな隠れ方教えてもらったの?」

陽菜は首をかしげて、洗面所の奥の壁を指さした。

「あのお姉ちゃん」

美咲が振り返った先には誰もいない。ただ白い壁があるだけだった。

その日から、陽菜の「かくれんぼ」は毎日続いた。保育園から帰ると、陽菜は決まって部屋の隅でこそこそと何かを話していた。誰もいない方を向いて笑い、うなずき、時には「うん、わかった」と返事をする。

美咲が声をかけると、陽菜はぴたりと話すのをやめて、にっこり笑うだけだった。

「陽菜、誰と話してるの?」

陽菜は決まって同じ答えを返した。

「お姉ちゃん」

夜、寝室で絵本を読んでいると、陽菜は突然クローゼットのほうを見つめて「ちょっとまってて」と囁いた。読み聞かせの声が途切れた瞬間、寝室に妙な静けさが落ちる。暖房も止まっているのに、クローゼットの扉がかすかに震えていた。

夫の健一に相談しても、彼は笑って取り合わなかった。

「空想の友達だろ。よくあることじゃないか」

でも美咲には引っかかるものがあった。陽菜の隠れ場所が日に日に巧妙になっていく。洗濯機の裏、浴室の天井点検口のすぐ下、押入れの天袋——四歳の子どもが一人で考えつくような場所ではないし、ましてや自力で登れる高さでもなかった。

それに、陽菜が見つかったあと、必ず隠れていた場所からかすかに——本当にごくかすかに——別の気配がした。誰かが息を潜めて、まだそこにいるような。

一週間後の夜、美咲は意を決して陽菜に尋ねた。

「陽菜、お姉ちゃんって、どんな子なの?」

陽菜はお気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱きしめながら、こともなげに答えた。

「長い髪でね、白いワンピース着てるの。いつもここにいるよ」

小さな指が寝室のクローゼットを指さした。

「……ここに、住んでるの?」

「うん。ずっと前から。陽菜たちが引っ越してくる前からずっと、ひとりでかくれんぼしてたんだって。誰も見つけてくれなかったから、嬉しいんだって」

陽菜は無邪気に笑った。

「お姉ちゃん、かくれんぼすごく上手なんだよ。今度はね、もっとすごい場所教えてくれるんだって。誰にも見つけられない場所」

美咲の背筋を冷たいものが走った。

翌日、美咲は仕事の合間に管理会社に電話をかけた。

「あの、三〇二号室の前の住人についてお聞きしたいんですが……」

「ああ、あの部屋ですか」

担当者の声が一瞬で曇ったのがわかった。

「五年前に一人暮らしをされていた女性です。二十七歳の方でした。ある日突然……所在がわからなくなって」

「見つかったんですか、その方」

電話の向こうで、担当者が書類をめくる音がした。

「……いえ。いまだに行方不明のままです。警察もずいぶん探したんですが、手がかりがまったく。ただ」

「ただ?」

「最後に彼女の姿が確認されたのは、あの部屋の中だったそうです。買い物から帰ってきたのを隣人が見かけたのが最後で。鍵は内側からかかっていました。生活用品も、財布も、携帯電話も、すべて部屋に残ったままで——まるで人が忽然と消えたような状態だったと」

美咲は受話器を握りしめた。指が震えていた。

担当者は最後にこう付け加えた。

「お客様、何かお気づきのことがあれば、すぐにご連絡ください。我々としても、ずっと気になっている案件でして」

その夜、美咲は夢をみた。

白いワンピースを着た若い女が、暗い密室の中でうずくまっている。長い黒髪が顔を覆い隠し、細い指が壁を掻いていた。壁には無数の爪痕が走っている。彼女は何かを必死に探している——あるいは、必死に隠れている。

女の唇がかすかに動いた。

「……みつけて」

声にならない声。でも美咲にははっきりと聞こえた。

「おねがい、みつけて」

美咲は飛び起きた。心臓が口から飛び出しそうだった。隣で陽菜がすやすやと眠っている。寝息は穏やかで、小さな胸が上下している。

安堵の息をついた、その瞬間——

かたん。

寝室のクローゼットの中から、かすかな物音がした。

誰かが内側から、そっと扉を押しているような。

美咲は震える手で健一を起こした。時刻は午前三時十二分。眠そうな健一に状況を説明し——それでも半信半疑の夫とともに——二人でクローゼットの前に立った。

健一がそっと扉を開けた。

中には陽菜の服と、まだ片付けていなかった段ボールが二つ。それだけだった。

「なにもないよ」と健一が言った。

二人がほっと胸をなでおろしたのも束の間だった。

「パパ、ママ」

背後からの声に、二人は同時に振り返った。いつの間にか起きていた陽菜が、眠たそうな目をこすりながらベッドの上に座っている。

「だめだよ。まだ隠れてるんだから。ちゃんと最後まで探さなきゃ」

「……何を?」美咲の声はかすれていた。

陽菜はにっこりと笑った。

「お姉ちゃんだよ。お姉ちゃん、今ね、もっとすごい隠れ場所教えてくれたの」

「どこ?」

陽菜はクローゼットの中の段ボールを指さした。

「あの箱。あの箱はね、ここじゃないどこかに繋がってるんだって。お姉ちゃん、ずっとそこで待ってるの」

健一が段ボールに手をかけた。ガムテープはもう剥がれかかっていて、いとも簡単に開いた。中には古びたアルバムと、女性もののブラウスが几帳面に畳まれて入っていた。服の間から、一枚の写真がこぼれ落ちる。

長い髪の若い女が、このマンションの前で微笑んでいた。背景には見覚えのあるエントランス。手に持った鍵には「302」の文字。

美咲が写真を裏返すと、細いボールペンの文字があった。

『もう誰にも見つからない。誰にも見つけられない場所に隠れる。ずっと、ここにいる』

そのとき、クローゼットの奥から声が聞こえた。

「……もういいかい」

陽菜の声ではなかった。

健一が写真を取り落とした。美咲は動けなかった。

「もういいかい」

二度目の声は、さっきよりはっきりと、近くから。

「まあだだよ」

今度は陽菜が嬉しそうに答えた。

「……まだ、みつけてないよ」

陽菜がベッドから飛び降りて、クローゼットの前に立った。

「お姉ちゃんが呼んでる。一緒にかくれんぼしようって」

小さな手が、クローゼットの奥へと伸びる。

美咲は叫び声を上げて陽菜を抱きしめた。

もう、かくれんぼはおしまいだ。

引っ越してから二週間。

陽菜は今日も部屋の隅で、誰かに向かって笑いかけている。

「もういいかい」

「まあだだよ」

クローゼットの扉は、もう二度と開けていない。でも夜になると、内側からかすかにノックの音が聞こえる。コン、コン、コン。

規則正しい三回のノック。

それはかくれんぼの合図なのか、それとも——

見つけてほしいという、誰かの叫びなのか。

美咲にはもう、わからなかった。ただ、わかることが一つだけある。

あの部屋には、まだ誰かが隠れている。

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