「四階には、四つの部屋しかないはずなのにね」
その話を初めて聞いたのは、引っ越してきて三日目の夜だった。隣室に住む佐竹という初老の男性が、エレベーターで偶然一緒になったときに、まるで天気の話のように口にしたのだ。
「深夜二時から三時のあいだだけ、五つ目のドアが現れるんですよ」
目黒区の静かな住宅街に立つ、築三十年の五階建てマンション。僕が借りたのは四階の四〇三号室。ワンルームで家賃は相場より二万ほど安かった。その理由を、佐竹の言葉で初めて理解した。
「この話、ネットでは有名でね。『四〇三と四〇四の間のドア』って検索すればすぐ出てきますよ。まあ、都市伝説の類ですけど」
佐竹は苦笑いを浮かべてエレベーターを降りた。扉が閉まる直前、彼は振り返って付け加えた。
「だけどね、決してノックしちゃいけませんよ」
僕はその晩、本当に検索してみた。すると驚くほど多くの書き込みがヒットした。最初の投稿は五年前。このマンションの元住人が「深夜、部屋の外に妙な気配を感じる」とSNSに書き込んだのが発端らしい。いつのまにか詳細が肉付けされ、「四〇三号室と四〇四号室の間に、夜中の二時から三時までだけ現れる五つ目のドア」という話になっていた。色はくすんだ灰色で、のぞき穴も表札もない無機質な扉。写真は一枚も存在しなかった——誰もが「撮ろうとしたけど、データが消えた」「真っ黒に写った」と言うだけだった。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、その夜、僕は午前二時までスマートフォンを眺めて起きていた。
二時三分。意を決して玄関のドアスコープを覗いた。廊下の常夜灯がぼんやりと浮かび上がるだけの風景。四〇四号室のドアが見える。その隣——四〇三号室と四〇四号室の間の壁——そこには何もなかった。灰色の壁紙が貼られた、ただの壁。
「なんだ、やっぱり都市伝説か」
そうつぶやいてドアスコープから目を離そうとした、そのときだった。
視界の端で、壁の表面がかすかに波打った。水面に石を投げたような、ほんの一瞬の歪み。見開いた目の前で、灰色の壁紙の中央に、縦の細い亀裂が走った。そして亀裂は左右に開き——気がつくとそこには、確かにドアがあった。
くすんだ灰色で、のぞき穴も表札もない。ただそこに在るというだけの、極めて静かな佇まいのドア。まるでずっと前から、このマンションが建ったときから、そこにあったかのように。
心臓が早鐘を打った。スマートフォンで写真を撮ろうとしたが、カメラアプリが起動しない。再起動を繰り返しても、カメラだけが反応しなかった。
五分ほど見つめていると、ドアがまた歪み始め、壁に吸い込まれるように消えた。跡にはいつもの壁紙だけが残っていた。
翌朝、僕は佐竹の部屋を訪ねた。
「見てしまいましたか」佐竹は茶を差し出しながら言った。拒否するでも驚くでもなく、当然の成り行きを受け入れたような口調だった。
「あれは、なんなんですか。本当にあった」
「本当ですとも。私も三度見ました。五年前、この部屋に越してきてすぐにね」
「五年前? じゃあ、最初の書き込みって——」
「ええ、私です」佐竹は静かに笑った。「最初は面白半分でした。SNSで拡散すれば、誰かが調べてくれるかと思って」
「誰かって、誰が」
佐竹はしばらく沈黙し、それから話し始めた。このマンションが建つ前、ここには古いアパートがあったという。四十年以上前の話だ。二階建ての木造で、四つの部屋があった。ところが改築の記録を調べると、ある時期だけ五部屋として登記されていた時期があった。たった一年だけ。その一年のあいだ、五番目の部屋に何があったのか——役所にも大家にも記録は残っていなかった。
「気になって調べました。当時の隣近所、高齢者施設に入った古老、図書館の縮刷版の地方紙まで。結論から言うと——」
佐竹は一度言葉を切った。
「五番目の部屋には、人が住んでいた記録がありません。でも、家賃は毎月振り込まれていました。現金書留で、差出人不明のまま。まるで——部屋が自分の家賃を払っているみたいに」
背筋を冷たいものが走った。
「それからどうなったんです」
「一年後、アパートの所有者が突然、建物を売却しました。驚くほど安い値段で。買い手はすぐに取り壊して、このマンションを建てた。でもね——」
佐竹は壁に目をやった。その視線の先は、四〇三号室と四〇四号室のあいだの方角だった。
「図面にも書かれていないのに、あのドアは消えない。まるで、建物のほうがドアに合わせて建てられたみたいじゃないですか? 壁の中に、最初から部屋があるみたいに」
「ノックしてはいけないって、どういうことですか」
「わかりません。ただ——」佐竹の声が一段低くなった。「このマンションに越してきた住人で、一年以上住み続けた人は、私を含めて三人だけです。他の人はみんな、遅くとも三ヶ月で引っ越していきました。引っ越しの理由はそれぞれバラバラですが、全員に共通点がありました。みんな、最後の一週間は夜も眠れなかったと。誰かが——扉の向こうから——ずっと名前を呼んでいたと」
僕は唾を飲み込んだ。
「なぜ、あなたはまだここに」
佐竹は答えなかった。代わりに立ち上がり、窓辺に歩いていった。カーテンの隙間から、夕暮れの街並みがのぞいている。
「耳栓をして寝れば、声は聞こえません。安い家賃で都内に住めるんです。悪い取引じゃない」
その夜、僕は耳栓を買った。ドラッグストアで一番遮音性の高いものを選び、念のため二重にして眠った。たしかに、何も聞こえなかった。
だが、三日目の夜、耳栓を外したまま眠ってしまった。
午前二時十七分、壁の向こうから声がした。
「……お願い」
女の声だった。若い、かすれた声。
「お願い、開けて。ずっと、ずっとここにいるの。誰か、気づいて」
僕は飛び起きた。声は壁から聞こえる。四〇三号室と四〇四号室のあいだの壁——五番目のドアがあるはずの、あの壁だ。
足が勝手に玄関に向かっていた。ドアスコープを覗いた。灰色のドアが、今夜もそこにあった。
「誰なんですか」僕はドア越しに問いかけた。
「佐伯……佐伯昌子です。あのアパートの、五番目の部屋にいました。四十二年前から、ずっと。家賃だけが届いて、誰も訪ねてこなくて」
「家賃を払っていたのは」
「わかりません。でも、あなたの声が聞こえる。やっと聞こえる。四十二年ぶりに、誰かの声が」
声は泣き出しそうに震えていた。
「あと数日で、ドアが完全に消えます。この建物が次に取り壊されるまで。お願いです。一度だけでいい。ドアを開けて——私がここにいるって、誰かに認めてほしい。存在を、認めてほしいんです」
僕の手はドアノブにかかっていた。冷たい金属の感触が指に伝わる。
「開けます」
その言葉を言った瞬間、佐竹の警告が脳裏をよぎった——「決してノックしちゃいけませんよ」。
でも、ノックじゃない。開けるだけだ。認めてやるだけだ。
僕は鍵を外し、玄関ドアを開けた。廊下に出て、二歩。灰白色の壁に手を触れる。ひんやりと冷たい。でもその下から、かすかな振動が伝わってくる——まるで壁の向こうで誰かが息をしているように。
手を壁に押し当てたまま、僕は言った。
「佐伯さん。ここにいるんですね。わかりました」
壁の向こうから、小さく息を呑む気配がした。
「……ありがとう」
その言葉と同時に、壁の振動が止まった。灰色のドアがゆっくりと薄れ、壁紙の模様に溶けていく。二時五十九分。ドアは完全に消えた。
翌朝、僕は佐竹の部屋を訪ねた。インターホンを押しても応答がない。ドアは鍵がかかっていなかった。
部屋はもぬけの殻だった。家具も、電気製品も、すべて消えていた。まるで誰も住んでいなかったかのように。ただリビングの床に、一枚の紙が落ちていた。
「家賃は現金書留で。差出人は不要。次の方へ——一年間、ありがとうございました。あなたがドアを開けたので、私はやっと出られます。代わりに、あなたが次の住人です。四十二年分の家賃、よろしくお願いします」
佐竹昌子。
僕はその紙を手にしたまま、自分の部屋に戻った。四〇三号室。壁の向こうは静かだ。あまりにも静かすぎる。
SNSを開く。『四〇三と四〇四の間のドア』で検索する。そして、新しい書き込みを投稿した。
「聞こえますか。次の住人です。ドアは今夜も、二時に開きます。のぞき穴から覗いてみてください。——僕はここにいます」
返信がつくまで、あと何年かかるだろう。