それは、事故から三ヶ月目の梅雨の夜に届いた一通のダイレクトメールから始まった。
「つらい記憶に、さようなら——メモリー・トランスプラント」
沢田圭、三十四歳。都内の広告代理店でグラフィックデザイナーをしている。三月の雨の日、乗るはずだった銀座線で人身事故が起きた。ホームで電車を待っていたとき、背後から走ってきたスーツ姿の男が線路に飛び込んだ。車両が滑り込む直前——男の目と、一瞬だけ合った気がした。謝罪だったのか、恐怖だったのか。いまでもわからない。ただ、あの目の色だけは消えなかった。
それ以来、駅のホームに立てなくなった。地下鉄はもちろん、JRも私鉄も、プラットホームの縁に近づくだけで鼓動が跳ね、冷や汗が背中を伝った。満員電車の中で突然、目の前の乗客の顔がすべてホームの男に見える日もあった。睡眠は溶け、仕事は滞り、恋人は去った。
心療内科の待合室で手にしたパンフレットが、ミームテック社の「メモリー・トランスプラント」だった。PTSD治療の革新的手法——外傷的記憶を「無害な代替記憶」で上書きし、脳から恐怖反応を消去する。まだ治験段階だが、被験者の九割以上で症状の大幅改善が報告されている。パンフレットの写真には、白い砂浜で笑う女性と「新しい私を取り戻しました」の文字。
新宿の高層ビル四十二階。クリニックは無菌室のように白く、待合室には同年代の男女が数人、誰もが無表情で俯いていた。全員が「消したい記憶」を抱えてここにいる。問診票に職業と症状を記入し、同意書にサインする。第五項にこうあった——「代替記憶の提供者情報は匿名化され、受療者に開示されることはありません」。
施術室でヘッドギア型の装置を装着される。痛みはない。視界の端で淡い青の光が脈打ち、耳の奥でかすかなハム音が響く。目を閉じると、地下鉄の記憶が再生された——雑踏の音、アナウンス、迫る車両。しかし再生されるたびに映像は褪せ、音量は絞られ、まるで他人の出来事のように遠ざかっていった。二十分後、「終了です」という技師の声で目を開けたとき、あの記憶は確かに「薄まって」いた。
代わりに現れたのは、自分が一度も見たことのない風景だった。
果てしなく続くヒマワリ畑。八月の強い陽射し。風に揺れる無数の黄色い花。空には白い入道雲。土の匂いと、どこかで鳴くヒグラシの声。映像はあまりに鮮明で、温度と湿度まで感じられる。瞬間的に記憶として定着した——夕暮れの地下鉄ホームよりも、こっちのほうが「自分の記憶」らしく感じられるほどに。
そして、ヒマワリ畑のずっと向こう——百メートルほど先に、誰かが立っていた。
白いワンピース。長い黒髪。痩せた肩。こちらに背を向けて、揺れる花の波の中に立ち尽くしている。顔は見えない。なぜか目が離せなかった。知っている気がしたのだ。一度も会ったことがないのに、知っている。
「認知ノイズです」二回目の施術前、担当医の片桐は平然と言った。細面の四十代、銀縁眼鏡の奥の目はいつも笑っていた。「新しい記憶が脳に統合される過程で、一時的な乱れが発生します。免疫反応のようなものです。二、三回の施術で収まりますよ」
二回目。ヒマワリ畑はさらに鮮明になった。陽射しが肌を刺し、花の花粉が鼻腔をくすぐる。現実の記憶よりもリアルで濃密だった。そして——女性は五十メートル先にいた。まだ背を向けている。だが、肩のライン、首筋の細さ、風に流れる髪の一房一房がはっきりと見える。距離が縮まっている。
三回目の前に、片桐は「別の記憶に切り替えます」と微笑んだ。「脳は多様な風景を好みますから」
今回は海辺の町だった。夕暮れの小さな漁港。オレンジの空をカモメが横切り、潮の香りが鼻をつく。錆びた防波堤に腰掛ける自分の感覚。波のリズム、遠くの漁船のエンジン音。映像は四Kより鮮明で、五感すべてを包み込む——まるでこの人生を実際に生きた誰かのように。
防波堤の先端に、彼女は立っていた。三十メートル。そして——こちらを向いていた。
ただし顔だけが、モザイク処理をかけたようにぼやけている。輪郭はある。目と鼻と口の位置はわかる。なのに細部だけが認識できない。彼女の存在感は強まっているのに、顔だけが拒否されている——まるで脳が見ることを拒んでいるかのように。
その夜、初めて夢を見た。ヒマワリ畑でも海辺でもない。白い部屋だ。壁も床も天井も真っ白で、窓はひとつもない。蛍光灯だけが静かに唸っている。部屋の中央に一台の医療用ベッド。その上に横たわる誰か——手足を太いベルトで固定され、頭にはヘッドギア。口元に小さなチューブ。胸はかすかに上下している。
生きている。でも意識はない。ベッドの脇のモニターには波形と数字が流れ、隅に小さく「MT-2147-A」と表示されていた。
午前三時、跳ね起きた。汗でシーツが濡れていた。スマートフォンを掴み、震える指で「ミームテック 代替記憶 ドナー」と検索する。公式サイトには何もない。治験概要にも、学会発表のアブストラクトにも、「代替記憶の生成方法」は一切書かれていない。AI生成と思い込んでいたが、よく読めば「人工的に生成」とも「合成」とも一言も書いていない。
二時間後、見つけた。スイスの医療倫理フォーラム。匿名の告発投稿——投稿者は「ミームテック元研究員」を名乗っていた。
「代替記憶はAIで作られたものではない。脳死判定を受けた長期昏睡患者——持続的植物状態の患者——から抽出された生の実記憶データです。彼らは同意していません。なぜなら同意を表明できる意識が、もう存在しないからです。我々は生きた人間の記憶を、耕すべき畑のように刈り取っている」
昏睡患者。意識はなく、しかし法的には生きている——その境界に閉じ込められた人間の、一生分の記憶。見た風景、愛した人、歩いた道、そのすべてがデータベースに分解され、見知らぬ他人の脳に移植されている。
そして自分の中のヒマワリ畑も海辺の町も、誰かの人生の断片だった。白いワンピースの女は——この記憶の、本当の持ち主だ。
四回目の予約日。クリニックには行かなかった。代わりに、自分のアパートで震えながら待った。何を待っているのか自分でもわからない。十一時三分、スマートフォンが震えた。ミームテックのアプリだ。
「沢田圭様。記憶番号MT-2147-Aの統合深度が臨界値に達しました。なお、相互リンク確立に伴い、あなたの実記憶の一部抽出が自動的に開始されています。進捗:12%。ご不明な点は担当医まで——」
相互リンク。移植は一方通行ではなかった。新しい記憶を受け入れる代償として、こちらの記憶が吸い取られている。
通勤電車のつり革の感触——消えた。
高校の卒業式、母の泣き顔——消えた。
初めてのデート、観た映画のタイトル——消えた。
自分の名前。漢字。書き順——
思い出せない。思い出そうとすると、代わりにヒマワリ畑が揺れ、防波堤に波が砕ける。
鏡を見た。そこに映っている顔は、まだ自分のものだった。でもわかる——モザイクがかかっている。内側から、ぼやけ始めている。
スマートフォンがもう一度震えた。今度は通知ではない。カメラが、ひとりでに起動していた。画面に映る自分の部屋——その隅に、白いワンピースの女が立っている。背を向けて。でも、ゆっくりと、振り返ろうとしている。
「進捗:47%。予定完了まであと3時間18分です」
彼女の顔は、もうすぐはっきり見えるだろう。そして私は——そのとき、自分が誰だったか、思い出せるだろうか。