伯父が亡くなったのは、梅雨明け直後の朝だった。
義父の兄にあたる単身の高齢者で、二年ほど前から認知症が進み、深夜に近所の交番へ「祭りが始まる」と訴え出ることもあったという。面倒を見ていた近所の人が、毎日のように母へ電話をかけてきていた。訃報を聞いたとき、私は心のどこかで安堵に近いものを覚えたことを、今でも恥じている。
遺品整理は、新幹線で二時間の地方都市、川沿いの古い平屋で行われた。夏になると湿度が高く、畳がじっとりと湿った匂いを放つ家だ。母と私と従姉の三人で、押し入れや床下収納を開けていく。
蔵にあった木箱をこじ開けたのは、二日目の午後だった。釘が錆びて蓋が硬く、マイナスドライバーでこじると、古い新聞紙に包まれた線香花火が十本出てきた。包装紙には「山田煙火店」の文字と、昭和四十八年の製造年月らしき印が薄く残っている。
「懐かしいわね。子どもの頃、この川原でよくやったのよ。でもこんなに古いの、もう点火できないでしょ。危ないから処分しましょう」
母は一本を指先で転がした。銀色の薬がパラパラとこぼれ落ちる。九本はくすみ、軸も黄ばんでいた。だが私が手に取った一本だけは、昨日店頭に並んでいたように銀の粒が乾いたまま光っていた。
その夜、私は伯父の家に一人残った。従姉は幼児を連れてホテルへ、母は夕方の電車で帰った。「エアコンをつけて休みなさい」と言い残して。
縁側に腰を下ろし、線香花火を一本だけ持ち出したのは、単なる気まぐれだったと思う。川の音が近く、蝉の声が背中に張り付く夜には、何か手慰みがほしかった。ライターで先端に火を点ける。くすぶったあと、小さな火球が生まれ、チリチリと音を立てて赤い火花が飛び散る。いつもの線香花火と変わらない。
だが、火花が落ちきっても火球は消えなかった。息を潜めるように赤く丸く、そこにとどまっている。火球の中に、人の横顔が見えた。輪郭はかすかで、十代の少女のようだった。襟足の短さ、耳の形——知らない顔なのに、どこか懐かしい気がした。
火花がもう一度激しく開き、闇に沈む。手が震えていた。「気のせいだ」とつぶやいて残りを箱に戻した。眠れないまま深夜二時まで、川の方から聞こえる何かを聞いていた。水音だけではなかった。遠い太鼓のような、間の開いた音。祭り囃子の断片のようで、近づこうとするとただの水流に戻る。
翌朝、母が戻ってきた。私は線香花火のことを言いそびれた。誰かに話せば笑われる気がしたし、何より、あの横顔をまた見たくなってしまっていた自分が怖かった。
遺品整理の合間に近所の人が差し入れを持ってきてくれる。七十を超えた女性が、縁側の木箱を見て顔色を変えた。
「それ……まだ残ってたの。山田煙火は四十年以上前に閉店した店よ。あの夏のあと、誰も後を継がなかった」
「あの夏?」
女性の視線が、家の裏を流れる川の方へ滑った。
「昭和四十八年の夏祭り。増水で足場が崩れて、子どもが一人、流されたの。見つかったのは三日後。上流の取水口の近くで。手には、線香花火を握ったまま……佐藤美咲ちゃん。当時十二歳。先生の娘さんでね。祭りの夜、友だちと川原で花火をしていて——誰かが『もっと下流でやろう』って誘った、と生き残った子が言ってたわ。線香花火が残ってるなんて初めて聞いた。みんな焼いたはずなのに」
母が茶碗を置く音がした。私は昨夜の火球の中の横顔を思い出し、背筋が冷えた。
その晩も伯父の家に泊まった。残った花火は九本。あの一本がまだ混じっているか、見た目では判別できなかった。すべてが一様に新しく見える気がする。箱を押入れの奥にしまった。鍵などない。ただ布団をかぶって眠ろうとした。
午前二時十三分。チリチリという音で目が覚えた。音は襖の向こう——縁側の方からしていた。誰も火を点けていない。雨戸は閉めてある。なのに線香花火の燃焼音だけが、規則正しく途切れ途切れに続く。
懐中電灯を握り、襖を開けた。縁側の板上に、押入れへしまったはずの木箱が置いてあった。蓋は開かれ、花火が一本、川の方向へ向くように置かれている。先端が赤く息づいていた。火球の中に、昨夜と同じ横顔がある。今度は口が動いているように見えた。
鼓膜の内側で響くような、ごく小さな声だった。「し・ま・い……ま・で……」
火花が散り、火球が消える。縁側のすぐ外——土の上に、小さな裸足の跡が残っていた。庭を横断し、むき出しのコンクリートを踏み、川原へ続く道へ消えていた。
衝動的に外へ出た。蝉は鳴いていなかった。真夏の夜なのに、虫の声がぽっかりと抜け落ちている。川面は暗く、対岸の街灯が長い光の筋を水に落としているだけだった。
川原に降りると、昔の祭りの看板の残骸が草に埋もれていた。錆びた鉄パイプ。崩壊したやぐらの土台。そして、誰かが最近掃いたような円い地面——そこに、燃え終わった線香花火の軸が何本も何本も突き刺さっていた。新品のように白い軸。黒い焦げは先端だけ。
その中央に、少女が立っていた。浴衣の柄は褪せた紺色に白いとんぼ。髪は耳の高さで切り揃えられ、足は泥にまみれていた。顔は火球の中で見た通りだった。近づいても表情は変わらない。怖いというより、酷く困った顔をしていた。
「……美咲さん?」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと首を横に振った。首だけが不自然に回転する感じだった。
「あたしは、ここにいるの。ずっと。伯父さんが、しまい忘れてたから。山田煙火の花火は特別なの。火を消しても、見た人の夏を持っていく。伯父さんは毎年、箱を開けて一本かけて、わたしを『見て』くれてた。見てくれれば、あたしは川に戻らなくてすむから」
私の喉が鳴った。「見てくれないと、どうなるの」
少女は川を指さした。水位は普段より少し高い。水面の下で、何か白いものがゆっくり回転していた。浴衣の端のようにも、骨のようにも見えた。
「流される。また。次の人の夏と一緒に」
背後でチリチリという音がした。振り返ると、家の明かりがすべて消えていた。火の粉だけが夜空へ上がっている。線香花火の火球が、誰も持たないまま宙に浮いているようだった。少女が手を伸ばす。掌の上に一本の花火が現れる。銀の薬が、月の光に小さな星のように光る。
「あなたが引き継いで。毎年、夏至が過ぎてから立秋までのあいだに、一本だけでいい。火球の中を見て。見落とさないで。そうすれば、川は静かでいられる」
「もし、やらなかったら」
少女は少し微笑んだ。優しい顔ではなく、どこかで見た祭りの写真に写った子どもの笑顔に似ていた——伯父の押し入れの奥のスナップの、ガラス越しの顔に。
「その年の八月、あなたにも川が来るわ」
気がつくと、私は縁側に座っていた。懐中電灯の電池が切れていた。手の中に木箱がある。中の花火は九本のまま。一本足りない——いや、一本多いのか。数え直すたびに数が合わなかった。
朝になり、母と従姉が来た。私は花火のことも、川原の軸のことも、少女のことも話さなかった。ただ木箱だけをキャリーバッグの底に入れ、実家へ持ち帰った。
それから三週間が過ぎた。都会のマンションでは蝉の声は遠く、川の音はない。それでも半夜、バルコニーのすりガラスの向こうでチリチリと鳴ることがある。見に行くと何もない。プランターの土がわずかに湿っているだけだ。
昨夜、玄関のシューズボックスの裏に、裸足の幼児サイズの足跡を見つけた。泥は乾いて白く、かかとの形がくっきりしている。玄関の外はコンクリートだ。泥などあるはずがない。木箱を開けた。花火は十本になっていた。
季節はまだ、立秋まで遠い。私は今夜、一本だけを点けるつもりだ。火球の中の横顔を見落とさないように。無風の部屋で膝を抱えて、火花が長く続くように。
もし火球が消えたあと、部屋のどこかに浴衣の裾が触れる音がしても——振り返らないでおこうと思っている。振り返った瞬間、彼女は「見てくれた」と安心して、次の夏まで私の家に居座るかもしれないから。あるいは、振り返らないことが、逆に彼女を川へ押し戻すのかもしれない。
どちらが慈悲なのか、線香花火は教えてくれない。ただ赤く丸く、短い夏のあいだだけ、誰かの顔をそこに閉じ込めて光る。