埋めた井戸

怪談 |2026.07.28

その平屋を安く買えた理由は、最初からはっきりしていた。築四十年。駅からバスで二十分。古い工場町で、若い夫婦向けとしては地味すぎる。それでも坪庭付きの家に憧れていた私たちは、内見の日に契約を決めた。

契約の前、不動産屋の担当者が妙に良心的な顔をして言った。

「浴室の床下、以前の所有者が途中まで直してるんです。石が組んである古い遺構が出てきて。市にも連絡しましたが文化財にはならず、埋め戻してコンクリートを打ち直してあります」

夫の拓也は「じゃあ問題ないですね」と笑った。私は少し引っかかったが、安い物件には影があるのが普通だと思い直した。鍵をもらった日、私たちは自分たちの暮らしを詰め込んで、その家へ入った。

最初の一週間は穏やかだった。縁側に朝日が差す。畳は新しい表に替えてあり、押し入れには前住人の古い優勝額が残っていた。町内会長が手土産を持って来て、「昔は呉服屋さんの離れだったらしいよ」と教えてくれた。井戸の話は出なかった。

変化は、七月の長い雨から始まった。

夜中の二時ごろ、浴室の排水口から、規則正しい水音がした。ポチャン、ポチャン、と間を置いて落ちる。栓は閉めてある。蛇口も締まっている。拓也は「雨樋がどこかで伝わってるんだろう」と布団の中で呟いた。私もそう思いたかった。だが水音の響き方が、壁の中でも天井裏でもなかった。もっと下——床の下、土の奥の、縦に深い場所から聞こえた。

翌朝、排水溝のフタを外して覗いた。暗い穴の向こうに、コンクリートの継ぎ目がある。筒状の配管が途中で曲がり、更に先は見えない。懐中電灯を向けても、光は途中で折れて消えた。底を測るための紐を垂らすと、十メートルほどで突然軽くなった。何か柔らかいものに当たった感触があった。

「木の根だよ。この辺、地下水位高いんだから」

拓也はそう言って、朝の光のなかでコーヒーを淹れた。私は笑って同意した。その夜も雨だった。

同じ時刻に、水音がした。今度は、落ちる間隔が短かった。ポチャ、ポチャ、ポチャ。三回続いたあとに、ごく小さな音が混じった。水が石に当たる響きではない。喉の奥で息を詰めたような、人の咳に近い音だった。

私は拓也の肩を揺すった。夫は小さく鼾を立てていて、起きない。洗面所の明かりをつけ、浴室の敷居まで行った。

排水口の周囲が、うっすら濡れていた。朝、拭いた覚えがある。風呂は使っていない。床のタイルを伝う水筋が、中心から外へ広がっていた。まるで、下から押し上げられたように。

そのとき、排水口の穴の奥で、誰かが小さく笑った。

声量はほとんどない。金属の管をくぐったあとの、歪んだ音色だった。私は敷居から二歩下がり、洗面所の扉を閉めた。鍵はない。引き戸を指で押さえて、自分の脈が耳の奥で鳴るのを聞いた。

翌朝、拓也に話した。彼は困った顔をして、地域の地図を調べた。

「地下水位は高いみたいだね。前のリフォームが雑だったんじゃない? 管理会社に連絡して、床下調査入れよう」

それが一番まともな反応だった。私もそうすべきだと思った。だが、電話をかける前に、近所で話を聞いてみたくなった。ポストの前で会った、八十近い女性に「この家、前はどんな感じでしたか」と訊ねた。

彼女の表情が、ほんの一瞬固まった。

「呉服屋の離れやった家やろ。その前は、もっと古い家が建っててな。……井戸、埋まっとるやろ」

「出てきたと聞きました」

「埋め戻したらあきまへん言うた人もおった。あの井戸、子どもの頃から、毒がある言うてな。水はあるけど、汲んだらえらいことになる言う伝承が残っとった。戦後、誰かがふたをして、その上に座敷を延ばした。あんたらの浴室の下は、たぶん昔の井戸端や」

「毒、というのは……」

「わからへん。ただ、井戸のそばで遊んどった子が、ひとり行方不明になったそうや。昭和四十年代や。親は『遠い親戚のとこへ行った』言うてたが、誰も信じとらへんかった」

その日の午後、管理会社経由で床下点検の予約を入れた。最短で五日後だと言われた。五日あれば、落ち着けると思った。

四日目の夜、雨は止んでいた。それでも水音はした。

今度は咳ではなかった。はっきりした発音で、私の名前を呼んだ。

「かおり」

排水口からではない。床下全体が薄い膜のように震え、家の土台そのものが声を伝えてきた。拓也は隣で目を開けた。

「今の、聞こえた?」と訊く私に、彼は生気のない顔でうなずいた。

「子どもの声だ」

私たちは浴室の扉を開けた。中は暗いまま、匂いだけが変わっていた。土の匂いと、鉄と、雨の降る前の川岸の匂い。タイルの目地から、細い水が染み出している。中央の排水口まわりだけが、不自然に温かかった。

拓也がライトを向けた瞬間、排水口の金網の内側に、細い指が三本、上から掴むように引っかかっていた。

長さは子どもの指にしては不自然に長く、色は長く水に浸かった白さだった。爪がない。指紋の線も消えている。光が当たると、指はゆっくりと金網の裏へ引き込まれ、音もなく消えた。

私たちはその夜、車中で寝た。翌朝、床下調査の業者を一日繰り上げてもらった。作業員が浴室の床を一部はがしたとき、コンクリートの下から古い石組みが現れた。円形に積まれた井桁。蓋をするように打ち込まれた新しいコンクリートは、中心だけが薄く砕けていた。

「ここ、完全には埋まってないですね。下に空洞があります。ポンプ入れます」

濁った水が何十リットルも上がってきた。泥と、溶けかけた木片と、子どもの布草履が一足。草履の鼻緒は腐り落ちていて、中敷きの布に「みさき」と書いてあった。

作業員の一人が、小声で言った。

「この深さだと、ただの溜め井戸じゃない。縦坑みたいになってます。計測、二十メートルでも底に届かない」

その言葉のあと、ポンプの管が変な振動を始めた。引き上げると、先端に人の髪の毛が何本も絡まっていた。長い。黒くない。灰のような色で、水気を含んで重い。

業者の責任者が作業を止めた。

「これ以上は警察と役所案件です。埋め戻しの記録と、昔の人身事故の可能性がある。今日のところは仮フタをして帰ります」

仮フタは鉄板だった。その夜、私たちはホテルを取った。それでも眠れなかった。家の防犯カメラから通知が来る。浴室側の廊下カメラだ。画面を開くと、誰もいない廊下の端で、引き戸が数センチ開閉を繰り返していた。開くたびに、床下から吹き上げる湿った影が、薄く廊下へ溢れては引っ込んでいた。

三日後、警察が簡易的な確認をした。昭和四十八年に、近所の少女・川上美咲が行方不明になっている。届出上は「家出の疑い」。遺体は見つかっていない。井戸との関連は「伝承の域を出ない」と、若い警部補は事務的に言った。だが彼の目は、浴室の鉄板から何度も逸れていた。

私たちは最終的に、その家を売りに出した。買い手がつくまでに四ヶ月かかった。説明義務として、井戸の件はすべて書面に書いた。契約の席で、若い単身者が「それも含めて味わいがある」と笑ったとき、私は胸の奥が冷たくなった。

引き渡しの日、荷物を出したあとの縁側で最後に中を見た。浴室の鉄板は新しいコンクリートに替わっていた。何も聞こえない。ただ、排水口の金網に、内側から外側へ向かって水滴が盛り上がっていた。

車を出す直前、助手席の窓に指で撫でたような三条の線があった。子どもの手にしては間隔が広すぎる。

拓也はエンジンをかけながら、前方だけを見て言った。

「かおり。俺たち、名前呼ばれたよな。声、子供の頃の親戚の子に似てた」

私は返事ができなかった。防犯カメラの最後の静止画を、私だけが拡大して見ていたからだ。引き戸の隙間から覗く影は、子どもではなかった。井戸の直径いっぱいに広がった水面のような顔で、目の位置だけが深く凹んでいた。

そしてその口が、はっきりと動いていた。

埋めたつもりでも、井戸は満ちる。地下水の季節が変わると、また誰かの名前を覚えて、床下から呼ばなくなるまで繰り返す。次の住人が味わいだと笑うなら——その家は、また少しだけ深く沈む。

今でも雨の夜、遠い町で目が覚めるたびに、私は自分の名前を心の中で噛みしめる。もし下から同じ発音が聞こえたら、井戸はまだ私たちの声を手放していないのだと思う。

埋めた井戸は、埋まらない。ふたをした人間の側が、やがて井戸の形に抉られていくだけだ。

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