そのマンションを選んだ理由は、駅近で安いことと、夜間でもオートロックがしっかりしていることだった。十四階建ての三階角部屋。不動産屋は「エレベーターは昨年オーバーホール済みです」と笑顔で言った。内見のとき、グレーの扉を見て、数字が一つ足りない気がしたことを、私はすぐに忘れた。
入居して一週間は何も起きなかった。カードをかざし、三のボタンを押し、ぼんやりしたランプに「3」が点くのを確認して降りる。隣人にはほとんど会わない。上層は夜勤の会社員が多いらしく、朝方に走る足音だけが聞こえる夜があった。
異変は、金曜の明け方に始まった。終電を逃して帰り、ロビーで一人エレベーターを呼ぶ。三を押す。上昇の途中、ランプの列のいちばん上が、一瞬だけ瞬いた。数字の板の端がわずかに段違いに見えた。錯覚だと思った。三階で止まり、見慣れた廊下が広がる。何も変わっていない。
翌朝、管理室で訊いた。「エレベーターの表示、全部ついてますか」。六十過ぎの管理人は名簿をめくりながら答えた。「一から十四までです。地下はありません」。私が十三の光り方を話すと、指が止まった。「うちに十三階はありません。十二の次は十四です。忌み数字の飛ばしですね。古い建物によくある話です」。
その夜、意識してランプを見た。一から十二の次は十四。十三の位置には板そのものがなく、黒い樹脂の隙間が一段分だけ空いていた。設計だと自分に言い聞かせ、布団に入った。
三日後、帰宅が零時を過ぎた。夜間モードのロビーでボタンを押し、鏡面に疲れた顔を映す。三を押す。九、十、十一、十二——いつもなら十四が点くはずの隙間が、オレンジ色に滲んだ。「13」。ステッカーでもシールでもない。ガラスの内側から浮かぶ、不格好な数字だった。
カコン、と小さな音がして、籠が止まった。表示は「13」のまま動かない。三のボタンを連打しても反応がない。非常ボタンに指をかけた瞬間、扉が開いた。
廊下ではなかった。床の色は似ている。壁の色も近い。だが蛍光灯の間隔が違い、一つおきに消えて、消えた手前に影が深く溜まっていた。突き当たりには非常口の標識代わりに、ノブの低い金属ドアがあった。子どもの手でも届く高さだ。
背後の扉は開いたまま閉じない。私は足の裏に残った勇気を集めて一歩出た。ほこりと古紙と濡れた布の匂い。左手の壁に集合ポストのような箱が並び、番号は一から始まらず、十三、十三、十三——と同じ数字だけが、作りかけのようにスタンプされている。名前欄の鉛筆の痕は、最初から読ませない書き方だった。
引き返そうと振り返る。エレベーターはまだ開いている。鏡面に自分の後ろ姿が映るはずだった。映っていなかった。暗い反射の、私の肩より少し後ろに、別の輪郭がある。背は低く、腕が長すぎる。顔のあるべき位置に、階数ランプのような橙の点が二つ、離れてついていた。
声は出ず、足だけが動いた。箱から目を離し、籠へ飛び込む。扉がやっと閉じる。表示は「13」のまま、昇りも下りもしない。非常ベルは鳴った。内線の受話器を外すと砂嵐のようなノイズが流れ、その奥で誰かが階数を数えていた。「……八、九、十、十一、十二、十三」。終わると八に戻り、同じ数字だけを何度も繰り返す。声は一人ではない。重なって、ずらして、低音のように響く。
「止めて」。呟いた瞬間、床が沈むように動き出した。ランプが逆に消えていく。十二、十一、十——三で止まった。扉が開く。見慣れた廊下。隣人の傘立て。膝が笑った。
翌朝、管理人は潰れた竣工図のコピーを出した。「手書きで『十三』が消してあります。昭和の終わりの改修記録に、『十三階ホール閉鎖・昇降機プログラム改修』とある。中に何があったかは残っていない。業者は今のプログラムに十三の番地がない、止まれない仕様だと言います」。
「昨夜、止まりました」。管理人は図面を棚に戻した。「最近、上層の方からも似た話が増えました。あなたの前に、五部屋ほどが短期退去しています。理由は『エレベーターが苦手』が多い」。
その日から階段を使った。三階なら苦にならない。雨の日も買い物袋の日も、扉の隙間を見ないように路地を通った。見ると、黒い樹脂の空白がわずかに光っている気がしたからだ。
一週間後の日曜、重い水を買って自分に言い訳し、昼間のエレベーターに乗った。怖い時間帯ではないと思った。三を押す。十二の次は十四。隙間は黒い。ドアが開く直前、表示が一瞬だけ「13」に差し替わった。荷物ごと後ずさりして外へ出る。廊下の床には、ペットボトルから零れたような雫が、非常口方向へ一直線に続いていた。私が零す前から濡れていた水筋だ。角で壁に吸い込まれたように消え、壁に扉はない。
その夜、違約金を払ってでも出ていくと決め、不動産屋へメールを書きかけた。送信前にインターホンが鳴る。画面は白ノイズだけで、誰も映っていない。受話器の声は管理人ではない。丁寧すぎる若い男だった。「エレベーター点検です。十三階の停止テストを実施しています。昨夜の乗車記録が残っているので、確認をお願いできますか」。
「十三階は、ないはずです」。「はい。ない階の停止テストです。図面上の座標だけを機械が覚えていて、閉じてある階ほどセンサーが勝手に学習するらしい。ドアを開けたままにしないでください。開けた人の顔を昇降機が登録します。次に『13』で止まったとき、登録された顔の部屋へ行きたがる。あなたの部屋番号も、もう届いています」。ガチャ、と切れた。
チェーンをかけ、階段で一階まで降りた。外は夏の夜の匂い。コンビニの灯りが遠い。スマホでホテルを探していると、背後で誰も呼んでいない時間に起動音がした。ロビーのパネルで階数が動く。一、二、三——そこで一度止まり、次の数字を飛ばし、また止まる。十四の分段では合わない間だ。
私は駅まで走った。始発を待ち、荷物も置いたまま遠縁の家へ向かう列車に乗った。のちに管理会社からメールが来た。「退去を確認。鍵はポストへ。なお該当時間帯の監視カメラに人物映像は映っていません。停止記録のみが残っています」。
いまはエレベーターのない木造二階に住んでいる。それでも夜中、遠くでケーブルが軋む音がすることがある。引越し業者から届いた段ボールの中に、知らないクリアファイルが入っていた。ラベルは手書きの「13」だけ。中の写真は、蛍光灯が一区画おきに消えた灰色の廊下。箱の前に立つ細い肩、長い腕。頭の形が少し崩れている。
隅の焼付けは、私がその部屋を契約した日の三日前。足元には、まだ買っていない時期の、いま履いているのと同じ柄のスリッパが写っていた。あの階が、私の足を先に登録していたのか。ファイルはまだ捨てられない。捨てると、またどこかの籠が顔を探しに来る気がするからだ。
新しい仕事場は十七階建てのビルだ。会議のたびに階段を使う。同僚に変な目で見られる。説明できない。ただ、たまに踊り場の窓に映る自分の後ろで、橙の点が二つ、瞬く。数えないでほしい。十二の次を、絶対に。