保健室の灯り

学校の怪談 |2026.07.30

夏休み直前の放課後、生徒会の書記である私は、職員室から鍵を借りて保健室のエアコンを落とす係だった。校舎はほとんど無人で、部活動の喇叭のような声だけが遠くで途切れていた。保健室のドアに手をかけたとき、廊下の蛍光灯が一度、弱く瞬いた。

中に入ると、白カーテンが半分だけ閉まっていた。ベッドは二台。奥のシーツだけが、誰かが起き上がった直後のように、わずかに凹んでいた。室温はひんやりしている。スイッチは切ってあるのに、天井の丸い電灯が薄い黄色を湛えていた。

「消し忘れか」。指を伸ばして壁のスイッチを切る。カチッという乾いた音のあとも、電灯は消えなかった。明るさは落ちたまま、芯だけが赤く残り、まるで小さな薬瓶の液面みたいに揺れて見える。目をこすっても消えなかった。

翌日、養護教諭の早川先生に報告した。三十代半ばの早川先生は、カルテ棚の鍵を回しながら微笑んだ。「古い球ね。施設課に言っておくわ。夏休み前は誰かがごっこ場所に使うこともあるし」。そう言って紙コップのコーヒーをすすった。棚の奥で何かが小さく落ちる音がしたが、先生は気にしない様子だった。

報告の翌日も、口の中に保健室の消毒液の匂いが残っていた。放課後の見回りを引き受けた翌週も、私は同じ廊下を通った。カーテンは真っすぐに閉まっていた。ベッドは平ら。電灯は消えている。安心した直後、奥のベッドの足元に、裸足の脚印が二つ、シーツの皺にだけ付いていた。大きさは私より小さい。土はついていない。湿った縁だけがはっきりしていた。

私は携帯で写真を撮った。フラッシュの白が部屋を叩くと、脚印は一瞬で消えた。撮ったはずの画像を見ると、シーツは平滑で、何も写っていない。ただし電灯だけが、切ってあるはずのまま、ぼんやりした暈を残して写っていた。

週末、同級生の三沢が職員室前で立ち話をしていた。「三年前、あの保健室で倒れた三年生がいたらしい。帰宅部と部活のあいだで行方不明になって、翌朝、ベッドに座ったまま発見された」。噂話好きの彼が、今日に限って声を低くした。「発見されたとき、電灯は消えてたのに、顔だけが黄色い光を浴びてたって。誰も電気をつけた記憶はない」

生徒会室で古い生徒会報を捲った。平成の終わりの号に、短い訃報のような一文があった。「在籍中に急逝された三年生の氏名は公表せず。葬儀は近親者のみ」。その下の雑記欄に、誰かがボールペンで追記していた。「保健室の灯りを消すな。消えたら呼ばれる」

私は万年筆で消そうとして、止めた。消し跡の下から、先に書かれた線が蘇りそうだったからだ。書記として報告書を作る役目のある私が、落書きを消すのは正しいはずだった。なのに指が動かない。正しい行為ほど、先に待っている気がした。

夏休みに入る三日前、見回り当番が私一人になった。教頭は「鍵は腕帯に通して帰れ」と言い、早川先生は午前のうちに帰った。西日が消えたあとの校舎は、早く夜のような影を落とした。私は他の特別教室を先に回り、最後に保健室へ向かった。

ドアの下から、薄い黄色が刃のように漏れていた。中の電灯は点いている。スイッチを入れた覚えのない灯りだ。ノックをすると、内側から「どうぞ」と声がした。女の声。早川先生に似ているが、響きが若い。喉の奥で息を止めたままの響き方だった。

ドアを開けると、カーテンが全部閉まっていた。電気は点いていない。だが部屋の空気だけが、光の温度を持っていた。奥のベッドに、白いセーラーの襟だけが見えた。体はシーツの懐に沈み、顔はカーテンの影で分からない。足先が、シーツの端からわずかに出ている。爪は短い。土はない。

「熱、測って」。声がした。寝ている側ではなく、天井の方から落ちてきたような声だった。私は後ずさりし、壁のスイッチに触れた。カチッ。部屋が一瞬、本当に暗くなる。直後、電灯がひとりでに薄い黄色を取り戻した。明るくはない。ただ、消えない。

カーテンの隙間から、細い手が覗いた。掌の向きはこちらではない。自分の額を探している仕草だった。額に当てるべき手のひらが、何度も空を切り、シーツの皺を掴む。私は早川先生の机にある体温計を取ろうとして止めた。計ったら、計ったことにされてしまいそうだったからだ。

「当番は誰」。同じ声が、今度は枕の辺りからした。私はフルネームで答えた。答え終わった瞬間、カーテンの内側でペンの走る音がした。カルテ用紙を捲る乾いた音のあと、低い溜息が落ちた。「来てよかったね。名簿の端に、あなたの番がまだ残ってた」

私は走って廊下に出た。鍵を外側からかけ、非常階段で一階へ降りた。校門で振り返ると、三階の保健室の窓だけが、校舎の他の暗がりから切り離されて、軟膏のような黄色を灯していた。窓に人影はない。なのに灯りは、誰かが横になって本を読む高さで安定していた。

家に帰って母に話すと、「夜更かしの見過ぎ」と笑われた。それでも私は、制服の裾に付いた白い糸くずを捨てられなかった。保健室のベッドの縁に付いていたのと同じ太さの、使い古したシーツの繊維だった。洗濯しても取れない。水に浮かべると、糸くずがゆっくり渦を作り、「欠」の字に近い形になった。

始業式の朝、私は早川先生に改めて話した。先生はカルテ棚を開け、いちばん奥の古いバインダーを出した。「これは出さない約束の資料。あなたには見せる」。ページをめくると、死んだ三年生の体温記録が並んでいた。三十八度台が三日続き、最終日だけ欄が空欄だった。空欄の脇に、鉛筆で小さく「灯りが好きだから、消さないで」とある。筆跡は、生徒会報の追記と同じだった。

「彼女は部活のあとに倒れたんじゃないんですか」。早川先生は首を振った。「巡回中の用務員が、消灯後の保健室で彼女を見つけた。電灯は切ってある。なのに顔だけが黄ばんで見えた。そのあと、消灯する係の生徒が、毎年一人ずつ、二学期のあいだ保健室の鍵を返すのを嫌うようになる。あなたが初めてじゃない」

私は「まだ呼ばれていない」と言いたかったが、口は乾いて動かなかった。その日の放課後、書記の仕事で印刷室に行くと、名簿の端に薄い印字が増えていた。出席番号の続きではない。欄外に、私の名字だけが、薬袋の印字みたいなフォントで小さく並んでいた。消そうとしてもトナーが滲み、むしろ濃くなった。

今も私は、生徒会を辞めていない。誰かが鍵を持たなければいけないからだ。早川先生は転勤し、新しい養護教諭は「古い球、全部交換したから大丈夫」と笑う。実際、昼間の保健室の電灯は普通に消える。問題は放課後だけだ。所属不明の黄色が、スイッチの理屈を知らないまま灯る。

先日、見回りを後輩に代わってもらった夜、私のスマホに知らない内線番号から着信があった。出ると、砂の混じったような放送音声が流れた。「ほかの教室に移ります。保健室の灯りを見た人は、消さないで。消した人の番が、次に来ます」。切れたあとも耳の奥で、薄い電子音が残った。チャイムではない。蛍光灯の安定器が老いて鳴る音に似ていた。

昨夜、遅くまでの準備で学校に残った。保健室の前を通らないルートを選んだのに、非常階段の踊り場から、三階の方角が同じ黄色に濡れていた。窓ガラスに映るのは校庭の暗闇だけで、人はいない。それでも私は、誰かがベッドの縁に座って、足をぶらぶらさせている気配を感じた。次の見回り当番表では、自分の名前の右に、小さな丸が鉛筆で増えていた。誰が付けたか分からない。丸の中は、塗り潰されず、灯りみたいに白く残っていた。

消さないと決めた。消す勇気より、消したあとに自分の番が来る方が怖い。夜の校舎を出るとき、私は振り返らない。振り返ると、保健室の窓が一度まばたきするように暗くなり、また黄を取り戻すからだ。それは機械の故障ではなく、確認の合図に見える。まだ名簿の端にいるよ、と。今年の夏が終わっても、あの灯りだけは、誰かの熱を計り続けるのだろう。

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