新しいマンションに引っ越して二週間で、私は壁のモニターに頼るようになった。顔認証、スマートロック、廊下の照度、給湯の予熱までを一括する住宅アプリの名は「プレセンス」。引っ越し説明会では、「到着の五分前から生活を用意します」と営業が笑っていた。最初は便利の話にしか聞こえなかった。
売りは「到着確率」だった。通勤経路、改札、天気、ウェアラブルの心拍まで取り込み、帰宅時刻を百分率で示す。八十で風呂が沸き、九十五で照明が暖色へ寄る。仕事が早く終わった夜、風呂はすでに湯気を立て、炊飯器のスイッチも入っていた。便利すぎて、誰かが自分の一日を先に歩いている気分になった。
最初の異変は、住むはずのない名前だった。アプリの同居承認欄に、灰色のカードが増えていた。青木奈々。到着確率は九十二パーセント。私はシングル契約で、鍵共有もしていない。奈々は大学時代の友人で、四年前に地方の高速道路で亡くなっていた。事故の夜、病院の廊下の消毒液の匂いまで思い出した。
サポートへ問い合わせると、定型文が返った。「プレセンスは履歴欠損を補完学習します。誤検知は拒否で除外できます。到着確率は実在の移動を保証しません」。拒否を押すとカードは消えた。湯はまだ熱く、洗面所のカップが二つ並んでいた。朝、自分では置いていないはずの位置だった。
翌日、同じカードが戻った。九十六。拒否しても午後に再表示され、九十八へ上がる。サポートは「強い生活相関がある場合、除外が遅延します。関連データソースを見直してください」と返した。写真フォルダには、奈々との旅行写真が百枚近く残っていた。プレセンスの権限一覧では、写真ライブラリの読み取りがオンだった。引っ越し当夜、一括で許したのだ。
権限を切るとカードは消えた。安心した夜、モニターが点滅した。「一時的なデータ欠損を近隣センサで補完しています」。隣戸のドア、共用廊下の人感、宅配ボックスの重量までが二次ソースらしい。確率は再び九十一。名前は出ず、白いシルエットだけが、十二分、八分、三分と点滅した。
玄関カメラは無人の廊下しか映さない。それでもアプリは「訪問者接近中」と震え、ドアホンが鳴った。画面には粒子の輪郭だけ。私は開けず、チェーンを掛けた。直後、外側の低い位置で靴を脱ぐ音がした。一足。もう一足は、間を置いて着地した。音の間隔だけが、昔の奈々の癖に似ていた。
隙間から覗いても誰もいない。玄関マットの角だけが、内側へ一センチめくれている。外側から踏まれた跡ではなく、内側から踵で押した円弧だった。直した指先が湿っていた。水ではない。薄い汗の温度だった。
翌朝、管理組合の掲示に告知が出た。到着確率を共用サイネージへ試験表示する、と。エレベーター前に、七階・佐藤・八十七パーセントの隣で、七階・青木・九十四パーセントが流れた。居住者一覧には、奈々のアイコンが薄い透明度で載っていた。他の階の住民が、画面を指さして小さく笑っていた。笑えないのは私だけだった。
管理人室で五十代の男性は眉を寄せた。「拒否しても戻るなら、学習が個人端末だけじゃない。竣工前のモデルルーム体験入居のセンサログが、本採用の初期値に入っているらしい」。私はアルバムの奈々を見せた。管理人は小さく言った。「同じ顔が竣工時のプロモ動画に一瞬映っています。サンプル家族の一人、と営業が言っていました」。公式の三十秒映像で、明るいリビングの娘の横顔は、葬式で見た最後のメイクの角度まで一致していた。
工場初期化の権限は組合側にあり、個人は通知のミュートしかできない。ミュートしても風呂は予熱され、人感灯は帰宅の二分前に点く。残業で帰らない夜にも手順は走る。隣人の主婦が翌朝インターホンを押し、「昨夜、女の人があなたの玄関で靴を揃えていました。あいさつしたら消えた」と言った。
防犯録画では、二十四時三分、七〇二号室が「予測入場トークン」で解錠されていた。確率が閾値を超えると発行される仮想鍵だ。ドアが開き、室内の灯りが順に点く。人影はない。靴箱だけが、内側から二センチ開いたまま止まっていた。
終日在宅した日、確率は動かなかった。私がいれば、もう一通の到着は不要なのだろうと思った。夕方、差出人不明の宅配が届いた。中身は写真欄が空白の学生証の複製で、氏名は青木奈々。裏の住所はこの七〇二号室。入居日は、私の契約より一週間早かった。
夜、通知が流れた。「同一住戸の到着確率競合を検知」。私は七十二、奈々は八十八。空調が意味不明な温度へ振れるたび、ソファの背に狭い肩幅の凹みが二つ並んだ。「ここにいるよ」という声が、換気扇の奥で薄く共鳴した。抑揚はアプリの読み上げに近い。四年前、事故直前の未再生ボイスメモを開くと、走行音と「もう着く」だけが流れ、換気扇の向こうで同じ二語が繰り返された。
詳細ログの末尾に一行あった。「死亡・転居・退去による欠落ノードは、相関の高い残存ノードへ吸着する」。私は写真を残し、誕生日をカレンダーに残し、時々名前を検索する癖を四年間やめられなかった。システムはそれを未完了の同居と読んだ。到着しなかった人の確率を、到着し続ける形で保存していた。
写真も誕生日も消し、学習リセットを申請した。サイネージから名前は消えた。それでも夜中の二時、玄関の内側で靴擦れがする。通知は来ない。確率も出ない。なのに湯気と暖色と、凹んだソファだけが先に用意される。便利の皮を被った待ち時間が、部屋の湿度として残る。
残業を減らし、自分の確率を九十九に固定すれば競合は起きないはずだった。昨夜、改札を出た瞬間、アプリが並記した。私・九十九。名なしの白アイコン・九十九。通知は短かった。「優先居住者を選定します」。数字が同じだと、名前より先に家が決まるらしい。
ドアを開けると、室内はすでに生きていた。靴が二足。片方は私の革靴。もう片方は小さな白いスニーカーで、紐が左右逆だった。奈々が学生のころよくやる結び方だ。モニターの到着確率は百。名前欄は空でカーソルだけが点滅し、私が入ると一字ずつ私の名が埋まっていく。途中、最初の一文字だけが一度消え、別の字の輪郭を試してから戻った。
今朝のサイネージは、七〇二号室をこう出していた。居住者一名。到着常時。確率確定。管理人は不具合が収まったと笑った。確定の下に、薄い透かしで足音の波形が走る。帰宅の音ではない。すでに家にいる誰かが、次に来る私を待っている音に聞こえた。
解約を申し出ると、安全装置と不可分で個人解約は不可、通知の非表示のみ可、と規約を突きつけられた。非表示にしても鍵は開き、湯は沸く。毎晩、靴が一足、内側から増える。朝には消えている。消える前に、紐の左右だけ正しく直っていることもある。私は直していない。
先日、共通の知人から奈々の七年忌の案内が来た。既読のまま返していない。写真を増やせば確率が戻る。戻らなくても、百で確定した部屋で、私は自分の帰宅を後からなぞっているだけかもしれない。モニターの端に、今日も小さい数字が点滅する。到着確率。誰の到着かは、もう表示されない。