夏休みに入って三日目、私は学校図書館のアルバイトに出ていた。司書教諭の森先生が産休に入り、代わりに来た非常勤の女性は、鍵の扱いだけは厳しかった。開架は自由に触ってよい。だが奥の鉄扉——閉架書庫——は、絶対に一人で開けないこと。それが最初に渡された紙一枚の注意書きだった。
閉架には郷土資料と、古い学年誌、廃刊になった部誌が段ボールで積まれていると聞いた。空調の関係で湿気がこもりやすく、一般生徒は入らない。私の仕事は返却本の背ラベル確認と、書架の乱れを直すことだけだった。鉄扉の向こうから、ときどき紙の擦れる音がした。風、と自分に言い聞かせた。
ある午後、返却カートの一番下に、貸出カードのない薄い冊子があった。表紙は灰色で、タイトルは手書きの油性ペン——『在室記録』。中を開くと、日付と氏名と時刻が並んでいた。直近の欄に、私の名前があった。入室時刻は昨日の二十二時十四分。閉館は十七時だ。私はそんな時間に校内にいない。
非常勤の女性に見せると、彼女は冊子をすぐに閉じて、鉄扉の前の小さな机へ運んだ。「閉架の在室簿です。昔は手書きで残していました。今は使っていないはずなのに」。使っていないはずの簿に、私の字に似た崩し字で名前が書いてあった。私が書いた覚えはない。けれど、中学のころの自分の筆記に近い癖があった。
夜、自宅でメールが一件届いた。差出人は学校のドメインで、件名は『閉架資料の返却督促』。本文は短い。『返却期限を過ぎています。明日、閉架書庫までお持ちください』。添付はなく、どの本かも書いていない。迷惑メールフォルダにも振り分けられず、既読にする前に、画面の端が一度だけ暗く点滅した。
翌日、図書館に行くと督促のことは誰も知らなかった。システムにも督促履歴は残っていない。非常勤の女性は肩をすくめ、「ドメイン詐称はよくあります」と言い、それでも閉架の鍵束を握り直した。鍵は三本。銀、くすんだ銅、そして歯がほとんどない黒い鍵。黒い鍵だけ、番号が削られていた。
午後の閑散とした時間、私は開架の郷土コーナーを直していた。すると、書架の隙間から灰色の『在室記録』が、また顔を出していた。昨日、閉架側へ戻したはずの冊子だ。開くと、新しい行が増えていた。本日、十五時二分、入室。氏名欄は私。いまは十四時五十を回ったところだった。
十五時ちょうど、鉄扉の向こうで何かが落ちる音がした。本が床に落ちる、あの鈍い音。非常勤の女性は出張で不在だった。注意書きどおり一人では開けない——そう思ったのに、私の右手はすでに黒い鍵を選んでいた。鍵穴は滑らかで、抵抗なく回った。中は思ったより狭く、蛍光灯が二本のうち一本だけ点いていた。
床に落ちていたのは、黒い表紙の生徒手帳サイズのノートだった。表紙に『閉架・持出禁止』の赤い印。中身は名簿ではなく、短い文の連なりだった。『ここでは名前を書くな』『時計を見るな』『出口の光を信じるな』。最後のページだけが空白で、その手前に、細い字でこうあった。『在室記録に名前が先に書かれた者は、戻る席を失う』。
背後で鉄扉が閉まる音がした。走って戻ると、内側にドアノブがない。外からしか開かない構造らしかった。ポケットのスマホは圏外表示のまま。時刻は十五時二分で止まっていた。いや、秒針はある。同じ二分の上を、何度も擦るように往復していた。
棚の奥から、紙を捲る音が近づいた。人の足音ではない。頁と頁が擦れる音だけが、通路を一本ずつ詰めてくる。私は持出禁止のノートを胸に抱え、点いている蛍光灯の下へ戻った。光の輪の外は、思ったより早く暗くなった。窓はない。換気口の向こうで、誰かが小さく咳をした。
咳の主は見えなかった。代わりに、棚の最下段に古い貸出票が並んでいるのが目に入った。票の氏名欄はすべて、同じ苗字——私の苗字——で、名だけが微妙に違っていた。一字違い。旧字。読みは同じで字形だけ違う名。その中に、完璧に一致する私の氏名票が一枚あり、返却期限欄は今日の日付だった。貸出日は、十日前。その日、私は熱で欠勤し、図書館には来ていない。
『在室記録』が、いつの間にか足元に落ちていた。新しい行が、インクの乾かないまま増える。十五時二分、入室。十五時二分、入室。同じ時刻の重複行が、ページを埋めていく。私が書くのではない。ペンも持っていない。なのに、行の最後の点だけが、私の癖で丸く閉じられていた。
非常勤の女性の声が、扉の外からした。「鍵は黒いのを使いましたか」。私は返事をした。声は出た。外の彼女には届いていない様子で、同じ質問が繰り返された。間を置いて、別の声——森先生に似た声——が重なった。「閉架は、欠員を補う場所なんです」。産休、欠勤、欠課。空いた枠に、名前だけが先に入る。
蛍光灯が一度点滅し、点灯した一本も消えた。闇の中で、貸出票がはためく音がした。誰かが私の肩に、薄い紙を貼る感触がした。剥がすと、闇でも読める赤印だった。『持出禁止』。額ではなく、胸の名札の位置に貼られていた。名札は今日、つけていない。
暗順応してくると、棚の間に狭い通路がもう一本あるのがわかった。通路の突き当りに、非常口のような緑のピクトグラムが淡く光る。注意書きのノートは『出口の光を信じるな』と書いていた。それでも足が動いた。光に近づくほど、足元の『在室記録』の頁音が速くなった。追いかけてくるというより、先に行って待っている音だった。
緑の光の下に、小さな受付窓があった。窓の向こうは図書館のカウンターに似ていて、向こうに座る人影の顔だけが白い。手を伸ばすと、ガラスではなく、古いフィルムのような膜に指が触れた。膜の向こうの人影が、ゆっくりと同じ角度で手を上げた。私の左手だ。腕時計の傷の位置まで同じだった。
人影は無言で、一枚の紙を膜の内側から押しつけてきた。在室記録の複写らしく、一番下の行に私の名と『退室——』の欄があった。退室時刻は空欄で、その横に鉛筆の跡のような誘導線だけがある。書けば出られる、と一瞬思った。ノートの警告が歯の裏側で疼いた。『ここでは名前を書くな』。
私は紙を拒み、来た通路を戻った。膜の向こうで、誰かが椅子を引く音がした。足音が二つになった。私の分と、もう一つの分。鉄扉の位置まで戻ると、外側から鍵が回る音がして、光が差し込んだ。非常勤の女性が青ざめた顔で立っていた。「五分しか経っていません。なのに中の時計が……」。彼女の指差す壁時計は、十五時二分のまま針を擦っていた。
外へ出た瞬間、スマホに圏が戻った。通知は一通。『閉架資料の返却を確認しました。ご協力ありがとう』。返していない。手には持出禁止のノートも、在室記録もない。なのに掌だけが、インクで汚れたあとみたいに匂った。鉄扉は再度施錠され、黒い鍵は鍵束から外されていた。「この鍵は、もう使いません」と彼女は言い、番号の削れた鍵を別の封筒へ封じた。
翌週、森先生が早めに復職した。閉架のことは曖昧に笑ってごまかす。ただ、夏休みのアルバイト名簿を見直すと、私の名前の下に薄い赤字で『閉架担当(補)』と追記されていた。申請した覚えはない。森先生は首を傾げ、「システムが欠員を自動で埋める設定になっていたのかも」と言った。自動で埋める対象が、人の名前だとしたら、とまでは言わなかった。
八月の終わり、学校のサーバー保守で図書館システムが止まった夜、私の私用メールに再送された。件名はまた『返却督促』。本文は前回と同じで、末尾に一行だけ増えていた。『在室記録の退室欄が未記入です。閉架までお越しください』。添付フォルダを開くと、写真が一枚。暗い棚と、胸の位置に『持出禁止』の赤印を貼られた制服の影。顔は枠外で、腕時計の傷だけが光っていた。
私は今も開架側で本を並べる。鉄扉の前を通るときは、足早になる。ときどき、閉架の奥で頁を捲る音がする。風、と言い切れる日と、言い切れない日がある。先日、非常勤の女性が残した引き継ぎメモの端に、こう書いてあった。『黒い鍵は廃棄済。ただし、在室記録に先に名がある生徒には、鍵は必要ない』。
今朝、返却カートの底に、また灰色の冊子が混ざっていた。開くと、最新行は今日の日付。入室時刻は、これから始まる午後のシフトの開始時刻より一分早い。氏名は私。退室は空欄。ペンを置く位置まで、誰かが気を利かせたように空白が作ってある。私は冊子を閉架の扉の下に戻し、鍵穴を見ないようにした。鍵穴の奥で、すでに何かが、一回だけ空回りする音を立てていた。