消音校正

SFホラー |2026.08.03

最初に気づいたのは、電車のアナウンスだった。通勤の山手線で、いつもどおりワイヤレスイヤホンを耳に当て、アプリの『環境較正』を走らせた。三秒のホワイトノイズのあと、車両の軋みも、誰かの咳も、きれいに薄れた。なのに、次の駅名だけが、輪郭のないまま耳の奥に残った。残ったというより、削られたあとに沈殿した音、という感じだった。

イヤホンの製品名は『オトナリ』。広告文句は簡潔で、『あなたに必要な音だけを残す』。会社の福利厚生で配られた最新ファームを入れると、会議の雑音、キーボード、隣席の私語まで段階的に消せる。集中モード、移動モード、睡眠モード。私は広告代理店のコピーライターで、締め切り前は常に較正を最大にしていた。

較正ログには、毎回小さなレポートが出る。『除去:環境音 八十四パーセント/人声 十二パーセント/残余:不明 四パーセント』。不明、という項目が気になってサポートに問い合わせると、定型文が返ってきた。『残余は、アルゴリズムが分類しきれない残響です。個人の聴覚特性として学習され、次回以降の精度向上に使われます』。学習される、という言葉だけが、妙に生々しかった。

ある夜、終電間際のホームで較正をかけた。案内放送は消え、遠くの電車の走行音も消えた。代わりに、ホームの端から、靴底が砂利を踏む音が近づいてきた。砂利など敷いていない。コンクリートの床だ。音の主は見えなかった。視界には若い会社員たちと、スマホを見る学生だけがいる。なのに足音は、私の左後ろで止まった。

振り返ると誰もいない。イヤホンを外すと、普通のホームの喧騒が戻る。つけ直して較正すると、また砂利の音だけが残る。アプリのログは淡々としていた。『除去:環境音 九十一パーセント/人声 九パーセント/残余:固定残響 一件(推定距離 一・二メートル)』。固定残響。その場所に張りついた音、という意味らしかった。

調べてみると、オトナリのユーザー掲示板に似た投稿が散見された。『較正後、亡くなった祖母の呼ぶ声だけ残る』『事故物件の部屋で較正したら、古いテレビの砂嵐が消えない』。運営は『プラシーボと聴覚疲労』で片付け、ファームの更新を促していた。最新ノートにはこうあった。『残余音の個人化を強化。不要な残響のカット精度を向上』。

私はカット精度を上げた。翌日の出社路で、砂利の足音は消えた。安心したのも束の間、オフィスの給湯室で新しい残余が出た。カップが置かれる音。誰もいないシンクの前で、陶器がカウンターに触れる短い音が、三分おきに繰り返された。ログは『固定残響 一件(推定年代:データ不足)』とだけ示した。

総務の先輩に、このフロアで亡くなった人がいないか、遠回しに聞いた。先輩は眉を寄せ、数年まえに契約社員の男性が休職のまま退職した話をした。給湯室でよく一人でカップ麺を作っていた、と。死因は知らない。連絡がつかなくなり、机は週末に片付けられた。『オトナリ配る前の話だよ』と先輩は笑った。配る前でも、建物の残響は残るのかもしれなかった。

較正を切って仕事をすると、逆に生々しい生活音が耳に刺さった。誰かの鼻をすする音、椅子の軋み、隣の席の独り言。オトナリは便利すぎて、生の音に耐えられなくなっていた。夜、自宅で睡眠モードを入れると、隣室のテレビも、外のバイクも消えた。残ったのは、押し入れの奥で衣擦れするような音だった。一人暮らしの部屋に、誰の衣類もない。

ログをエクスポートして自分で眺めた。残余の一覧に、地名と座標と短いラベルが並んでいた。『ホーム端/歩行』『給湯室/陶器』『自室/布地』。最後の行だけ、ラベルが空欄で、座標が自宅のものを指していた。推定距離は 〇・〇メートル。つまり、較正の基準点——私の鼓膜の位置——そのものに、何かが張りついている計算だった。

不安になってファームをロールバックしようとしたが、アプリは『安全上の理由によりダウングレード不可』と返した。サポートチャットの相手は、最初は丁寧な定型文だった。途中から、返答の間が不自然に長くなり、最後に一行だけ人間味のある文が混じった。『較正は、聴こえを直す作業ではありません。残すべき音を選ぶ作業です』。送信者名は『オトナリ・ケア』のままだった。

翌週、会社で重要なプレゼンがあった。集中モードを最大にして臨んだ。室内の雑音は消え、自分の声だけがはっきり返ってくる。質問タイムに入った瞬間、部屋の空気が変わった。口を開いている同僚の顔は見える。唇は動いている。なのに声が届かない。ログが画面端に小さく点滅した。『人声除去:一時的に上限到達』。

私はイヤホンを外した。世界がどっと戻ってきた。質問の声、椅子、空調。安堵して席に戻ろうとしたとき、外したはずの右耳の奥で、カップの置かれる音がした。続いて、砂利を踏む足音。押し入れの衣擦れ。較正を切っても、一度『残余』として学習された音は、耳の側に残るらしかった。アプリを削除しても、同じだった。

病院の耳鼻科では異常なしと言われた。聴力検査の数値は年齢相応で、鼓膜もきれいだ。医師は『デジタル機器の使いすぎによる注意の偏り』と書き、静かな場所で過ごすよう勧めた。帰り道、推奨どおりイヤホンなしで歩いた。街の音は確かにあった。それなのに、横断歩道の信号音のあいだに、誰かが私の名を呼ぶ残響だけが、規則正しく差し込まれた。

呼ばれ方に覚えがあった。子どものころ、母親が夕暮れに玄関から呼ぶ声に似ていた。母は三年前に亡くなっている。葬儀のあと、遺品の携帯電話にオトナリの体験版が入っていたことを思い出した。母は音に敏感で、晩年はよく『隣がうるさい』と言っていた。一人暮らしの部屋で、隣室は空室だった。

母の古いアカウントに、家族引き継ぎで入れることを思い立ち、サポートに請求した。権限が降りるまで二日。開いた較正履歴の最古の行に、母の自室座標と、ラベル『呼名』があった。推定距離 〇・〇メートル。母は、自分の鼓膜の位置に、誰かの呼ぶ声を抱えたまま死んだらしかった。そしてその残余は、引き継ぎの権限とともに、私のログへマージされていた。

アプリの設定に、小さな項目を見つけた。『残響の共有(実験)——同一系統の聴覚プロファイルへ、未処理の残余を分散します』。スイッチはすでにオンで、灰色にロックされていた。説明文の末尾に、薄い字でこうあった。『消音は完了しない。校正とは、誰かの残余を、次の耳へ移す手続きである』。

私は今も、締め切りの夜にオトナリを使う。使わないと、世界の生音が厚すぎて眠れない。較正を走らせると、街もオフィスも自宅も、必要最低限のクリック音だけになる。その清潔な無音の底で、カップと砂利と衣擦れと、母の呼名が、順番に小さく鳴る。ログの不明パーセントは、更新のたびに減らない。減らないまま、私の名前の欄に、次の共有先候補として、会社の後輩の社員番号が予備表示されている。

今朝、その後輩が給湯室で首を傾げていた。『なんか今、誰もいないのにカップの音しませんでした?』。私は笑って否定し、自分のイヤホンのケースを握りしめた。ケースの内側に、出荷時にはなかった一文が刻まれていた。『較正を止めても、選ばれた音は残ります』。耳の奥で、母の声がもう一度、夕暮れの長さだけ、私の名を呼んだ。今度は、残余ではなく、較正後に残すよう指定された、正式な必要音として。

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