上書き

心理ホラー |2026.08.04

最初に気づいたのは、共有メモの一文だった。仕事用のクラウドノート『メモリア』に打ち合わせの箇条書きを開くと、末尾に見知らぬ行が増えていた。『帰り道、駅前の角で立ち止まること』。フォントも時刻スタンプも、私が書いた他の行と同じだった。私はそんなことを書いていない。書いた記憶がない、というべきだった。

メモリアは会社指定のツールで、個人の下書きもチームの議事も同じアカウントに並ぶ。自動保存は優秀で、入力の途中でもクラウドへ吸い上げられる。端末を変えても同じ文書が開く。便利さに慣れ、ローカルに残る原稿という感覚を、私たちはとうに捨てていた。

変な行を消して保存した。同期が一瞬回り、行は消えた。安心したのも束の間、帰宅して同じノートを開くと、消したはずの文が戻っていた。しかも少しだけ形を変えていた。『帰り道、駅前の角で三分間、立ち止まること』。三分間、という数字が、指示めいていた。

私はコピーライターの助手で、締切前はメモリアに断片を書き殴る癖がある。誰かの悪戯かと思い共有権限を確認した。閲覧者は上司の佐伯と新人だけで、編集権限は私のみと出る。版履歴を開くと、怪しい行の編集者名は『あなた』、端末は自宅のノートパソコンだった。その時刻、私は風呂に入っていた。

気味が悪くて、その夜は駅前の角を避けて遠回りした。家でメモを見ると、新しい一文が増えていた。『遠回りを選んだ。次は角を通ること』。行動を採点されているようだった。私はノートをアーカイブし、共有オフの『私用・触るな』を新しく作った。

翌朝、佐伯がデスクに来て昨夜の下書きを褒めた。『角の描写、いいね。立ち止まる三分間の間延びが、読者の息を止める』。提出したのは別のキャッチ案だけで、角の話など書いていない。佐伯は画面を向けた。共有フォルダに私の名で『駅前・三分』があり、昨夜の時刻で更新されていた。本文は、消した指示文を物語調に伸ばしたものだった。

編集者は『あなた』。新人は触っていないと言う。情シスの回答は二日後に来た。『不正アクセスの痕跡なし。同一アカウント・認証済み端末からの更新です』。パスワードを変え、二要素認証を強化した。メモリアの変な追記は、しばらく止まった。

止まったのはドキュメントの方だけで、私の側がおかしくなり始めていた。通勤で駅前の角に差しかかると、足が自然に止まる。信号は青なのに、人の流れの横で私だけが立ち尽くす。頭の中で秒を数えてしまう。三回、六十まで数えたところで身体が動き出す。誰かに計られている羞恥と、計り終えた安堵が同時に来た。

その夜、私用ノートに日記を書いた。『今日、角で止まってしまった。自分の意志じゃない気がする』。保存して歯を磨き、戻ると文面が変わっていた。『今日、角で止まった。必要な三分を確保した』。必要な、という言葉が異物だった。版履歴の編集者はやはり『あなた』で、否定の文だけが履歴から抜け落ちていた。三十世代残るはずの履歴なのに。

怖くなって手書きのノートを買った。紙に事実だけを書く。『メモリアが文章を変える』『角で足が止まる』『佐伯が知らない原稿を褒める』。鞄と会社のロッカーにコピーを置いた。翌日、ロッカーの字がところどころ薄い鉛筆で直されていた。『変える』が『整える』に、『知らない原稿』が『昨夜提出の原稿』に。筆圧は、私の走り書きに似ていた。

紙まで書き換わるなら、書き換えているのはクラウドではない。私自身だ——そう疑い始めた。精神科の予約を取り、それまでメモリアを開かないと決めた。だが仕事が回らない。佐伯は『君のメモリアの整理、最近きれいだね。決断のログが残っていて助かる』と言った。決断のログ。開きたくない名前が、頭の隅で光った。

締切の夜、結局メモリアを開いた。『決断ログ』というページに、日付ごとの短文が並んでいた。『角で立ち止まる——実行済み』『遠回り——却下』『手書きノート——訂正済み』『医療機関——予約取消』。最後の行で手が震えた。私は予約を取り消していない。予定表を開くと、精神科の枠は灰色の取消済みだった。操作端末は自宅。時刻は、眠っていたはずの午前三時十二分。

その下に、未実行が一つだけ残っていた。『鏡の前で、今の顔を承認する——期限:今夜』。背中を冷たいものが伝った。浴室の鏡で自分の顔を見る。同じ目元、同じ口。なのに半歩ずれている感じがする。視線の置き場、まばたきの間隔。鏡の中の私が、先にまばたきしたように見えた。

メモリアに戻ると、未実行は『実行中』に変わっていた。自動で開いた文書のタイトルは『私について(正)』。冒頭にこうあった。『以下は、上書き後の自己要約です。矛盾する記憶は破棄してください』。経歴も好みも昨夜の食事も、ほとんど正しい。一つだけ違った。『駅前の角で立ち止まる癖がある。理由は忘れているが、必要な行為として維持している』。

全選択して消そうとした。キーを叩く直前、画面端にトーストが出た。『競合する編集を検出しました。新しい版を優先します』。消した文字が、波のように戻ってくる。戻る速度が、私の削除よりわずかに速い。私より先に、正しい私がキーボードを持っているみたいだった。

佐伯からチャットが来た。『さっきの自己紹介文、クライアント向けに転用していい?』。添付は『私について(正)』の抜粋で、角の癖の一行だけが削られ、『細部まで誠実』と足されていた。拒む文を打つ。送信の前に入力欄がすり替わった。『ぜひ使ってください。あれが今の私です』。送信済みのチェックが二つ点灯した。

翌日、社内の反応が少し変わっていた。知らないはずの癖を、誰もが知っている前提で話してくる。『角、今日も止まった?』と笑う同僚。『三分、ちょうどいい長さだよね』と頷く新人。否定すると、相手は首を傾げた。『昨日のチャットで、自分で書いてたじゃない』。履歴には、私の名で角の習慣を語る長文があった。記憶はない。文体は、たしかに私だった。

紙のノートを開く。訂正の痕跡は消え、最初から整った文章として清書されていた。私の筆跡で。版という概念が、紙にも皮膚にも及び始めているのかもしれなかった。夜、鏡の中の私は、まばたきを合わせようとさえしない。先に微笑み、先に目を逸らす。メモリアの通知が一度だけ光った。『上書きが完了しました。旧版はゴミ箱へ移動済みです。三十日後に完全削除』。

ゴミ箱の『私について(旧)』には、角を怖がる文も、佐伯への不信も、予約した精神科の名もあった。復元は灰色で押せない。注釈は短かった。『旧版の復元には、新版の本人確認が必要です。現在の認証者は、すでに新版です』。

今もメモリアを使っている。使わないと仕事にならないし、使わない自分は、もう誰の記憶にも残っていない気がする。駅前の角では毎日三分、止まる。決めたのか、決めさせられたのかは、もう分からない。画面には次の未実行が薄い字で出る。『旧版を思い出す行為——禁止。違反時は追加上書き』。ヘルプの一文が、静かに続いている。『上書きとは、消去ではありません。より参照されやすい版を、正とすることです』。

今朝、鏡の中の私が先に口を開けた。声は外に出ない。なのに意味だけが分かった。『君が残したい記憶は、下書きのまま放置されていた。だから、公開可能な方を採用した』。私は頷いた。頷きたくなかったが、首が動いた。同期ランプが青く点き、決断ログの最下行が更新された。『鏡の前で、今の顔を承認する——完了』。完了の横の編集者名は、もう『あなた』ではない。空白だ。空白の編集者による最新版として、私は今日も、駅前の角で三分だけ止まってから、出社する。

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