介護付き有料老人ホーム『ひなたの丘』の夜勤に入って三ヶ月になる。週二回、二十二時から翌朝七時。利用者は四十名、夜勤は二人。常勤の佐藤さんと私で、私は二階の見回りとナースコールを担当する。
引継ぎはスタッフルームの白いテーブルで行われる。細かい観察は赤い表紙の『夜間引継ぎノート』に残す決まりだ。A5の大学ノートで、開設八年前から同じシリーズが使われている。角は擦り切れ、ボールペンの押し跡が透けている。
その夜も日勤の田中さんが『三〇二の山田さんは咳が少し。一〇一の鈴木さんは夢で娘さんを呼ぶ』と話し、ノートにサインした。私は了解し、佐藤さんと顔を合わせて二階へ上がった。
二十二時四十分、最初の巡回を終えて戻ると、ノートが机の中央に開いていた。田中さんが閉じたはずなのに。今夜の日付のページ、まだ書いていない『夜勤・見回り一回目』の欄に、私の名前と、私の字に酷似した走り書きがあった。
『二二時三五分 二階東廊下 静穏。三〇二離床なし。非常灯のちらつきは記録済み(対応不要)』
見回りはその時刻に終えた。非常灯が一度暗くなったのも覚えている。だがノートには触っていない。佐藤さんは『さっきまで閉じてた』と言う。インクは乾いていた。
『前にもあった。記録が本人より先に書かれる。二年前、書いた側の人が翌月に辞めた。辞めたあとも、しばらく名前だけが出ていた』と佐藤さん。冗談にしては具体的すぎた。三〇二のコールが鳴り、ノートを閉じて走った。山田さんはコップを探していただけだった。戻ると、ノートは再び開いていた。
『二三時一〇分 三〇二コール対応。問題なし。 ※二階西の手すりの冷たさは気にしないこと』
西の手すりには触っていない。行ってみると、非常口寄りの手すりだけが真夏なのに冷えていた。壁の古い張り紙の端が湿ってめくれていた。
佐藤さんが無線で呼んだ。『玄関センサーが反応した』。施錠は生き、モニターに人影はない。戻る途中、スタッフルームのドアが内側からノックのように鳴った。中の佐藤さんは何もしていない。ノートにはもう一文が増えていた。
『二三時四〇分 玄関センサー誤作動。 ※ノックには応えないこと。応えると、記録の主が入れ替わる』
癖のある『が』の跳ねまで私の字だった。佐藤さんが撮影すると、写真はノイズだけの灰色になった。実物の文字は残っている。
零時を過ぎ、機械音と秒針だけが残る。私はルートを変え、西から回った。手すりの冷たい区間は、歩くたびに伸びている気がした。温度計は二十八度を示していた。
一〇一の前で足が止まった。ドアの隙間から低い話し声。『ノートに書いたでしょう』『書いた側が来るのよ。書かれた側じゃない』。開けると鈴木さんは眠っている。枕元の写真立てのガラスに、一瞬スタッフルームの白いテーブルが映った。
一時十五分、佐藤さんが言った。『先に書かれた予定どおりに動くな。二年前の人は再現しようとして、主語が入れ替わった。次のページから、その人の名前が「対象」欄に移った』。書式に対象欄はない。佐藤さんは表紙に『欠』と墨字の旧ノートを見せた。右端に細い列があり、見出しは『対象(見守り強化)』。名前の末尾に赤い丸と『退職扱/記録継続』。
『触るな』と欠のノートは棚の奥へ戻された。今夜のノートがひとりでにめくれ、空白の時刻を埋めた。『一時四〇分 二階西手すり区間、延長を確認。触れない。巡回を短縮すること』。時計は一時三十二分。八分後の指示が先に出ている。
指示には従わず、いつも通り回った。西廊下で冷気が膝まで上がり、床に朝露のような膜が張っていた。膜の上に、自分の靴より半サイズ小さい靴跡が奥へ続いていた。靴跡は三〇五の前で消えた。先月亡くなった利用者の空室で、明日から荷物整理の予定だ。
施錠されていなかった。ベッドのサイドレールに同型の赤い表紙が挟まり、今夜の日付と私の名があった。『記録は、現場より先に真実になる。遅れている側が、対象になる』。薄く浮かぶ対象欄に、私の名の横へ点線の丸の下書きがあった。
スタッフルームへ走ると、佐藤さんの顔から血の気が引いていた。『二人分の筆跡で書き合ってる』。私の字と、二年前に辞めた『岸』の字が交互だった。撮影失敗のノイズを拡大すると、模様が「岸」に見えたことを思い出した。
『岸さんは先に書かれた予定を全部こなした。主語が入れ替わり、翌日から来なくなった。自己都合退職。本人は施設のことを覚えていない。毎年この時期だけ、夜勤帯に名前が戻る。今夜はあなたが遅れている。だから丸の下書きが付いた』。
ノートは手を借りずに進む。『二時〇〇分 空室三〇五確認済み。対象候補の遅延を修正中』。私は余白に力を込めて書いた。『私は対象ではない。記録は事後に行う。先書きを採用しない』。ページが熱を持ち、先書きの行が薄くなった。消えはしない。二重に重なり、読みにくくなった。
佐藤さんが頷いた。『事実だけを、あとから書け』。明け方までノートは引き出しに鍵をかけた。中で紙の擦れる音はしたが開けなかった。二人で回り、手すりには触れず、三〇五の前では立ち止まるだけにした。ノックには応えなかった。
五時過ぎ、音が止んだ。ノートは閉じられ、中は日勤の申し送りと、夜明け前に追記した簡潔な事実だけだった。先書きも対象欄も岸の字もない。最終行の隅にだけ、極小の字で残っていた。『遅れを戻した。次は、先に書いた側が遅れる。丸は持ち越し』。筆跡は開設当初の日誌に似ていた。
佐藤さんはその行を隠すように閉じた。『上には出すな。出した人から名前を拾われる』。七時、日勤の田中さんに『静穏でした』とだけ答え、ノートを渡した。表紙の角の内側に、薄い赤い染みが点々とある。血ではない。何年分もの先書きのインクが、削れて染みになったように見えた。
帰宅後も、書いていないのに指が対象の列をなぞる動きを覚えていた。夕方、事務メールが届く。『夜間引継ぎノートを新品に切替え。旧ノートは書庫へ』。添付写真の新品の横に、欠の旧ノート束。一番上の背表紙から、私の名字の一文字だけがラベルの端に覗いていた。
末尾に自動署名ではない一文。『引継ぎは、終わったことから書いてください。終わっていないことを書くと、終わらせる側に回ります』。送信者名は空白だった。既読の瞬間、メモアプリが開き、まだ見ぬ日付のシフト行が一行だけ増えていた。二十二時、担当は私。内容欄に仮入力がある。『先書き禁止——ただし、禁止を書いた時点で、記録は始まっている』。
削除キーを押すと消えた。直後、施設のスタッフルーム端末から同期通知が来て、同じ一文が共有メモに復活した。編集者名は『引継ぎノート』。人の名ではない。
今も週二回の夜勤は続く。新品のノートは、今のところ事後の記録だけを受け付ける。ただ書庫の旧ノート束が、巡回のたびに一ミリずつスタッフルーム側へ寄る気がする。鍵はかかっている。なのに朝、床に赤い表紙の擦れ粉が落ちている朝がある。粉の並びが、ときどき文字になる。『次は、遅れて書くな。遅れも、先の一種だ』。私は吸い取り、ログには『床清掃』とだけ書く。事後の、事実だけの一行。それ以外を書くと、またページが先に進む気がしたから——。