中古の二LDKを買ったのは、駅から十二分、築十八年、南向きという条件が揃っていたからだ。内覧のとき、不動産の担当が広げた間取り図には、寝室のクローゼット横に小さな『納戸』が描かれていた。『収納が多めです。季節物をしまうのに便利ですよ』と笑顔で言われ、私は頷いた。実際の内覧ではクローゼットしか見ておらず、納戸の扉を開けた記憶がない。担当が先に進み、私はリビングの日照ばかり気にしていた。
鍵を受け取って入居した夜、寝室を見て違和感があった。クローゼットはある。だが図面にあったはずの納戸の扉がない。壁は真っすぐ続き、コンセントが一つあるだけだった。図面を広げ直すと、納戸の位置には確かに細い長方形がある。メジャーで測ると、寝室の奥行きが図面より三十センチ短かった。誤差にしては大きい。
『施工の誤差でしょう』と担当は電話で軽く笑った。『古い図面は現場とズレることがあります。納戸は設計変更で潰したのかも知れません。重要事項は現況優先です』。重要事項説明書に納戸の記載はなく、登記の床面積はいまの実測に近い。私は納得したふりをして、図面を引き出しにしまった。それでも夜になると、壁の寸法が気になって仕方なかった。
引っ越し二週目の深夜、壁の向こうで乾いた擦れ音がした。隣は空き室だと聞いていた。管理会社に確認すると『六〇二は先月解約。原状回復中で、業者が入るのは来週』との返事だった。擦れ音はクローゼット側の壁から続く。耳を当てると、薄い木を爪で撫でるようなリズムだった。三拍、間、三拍。誰かが内側から間取りの線をなぞっているように聞こえた。
翌朝、壁を軽く叩くと、ある区間だけ響きが違う。中が空洞に近い。図面の納戸の位置と重なる。友人の大工に来てもらうと、『間柱の間隔がおかしい。仕上げのボードが一枚、向こう向きに貼ってあるみたいだ』と首を傾げた。『壊さないと中は分からない。売主に聞く? 契約不適合で争う手もある』。私はまだ住んだばかりで、波風を立てたくなかった。友人は帰りの靴を履きながら、『図面を信じるな。図面は、誰かの希望図だから』とだけ残した。
その夜から、クローゼットの奥に湿った段ボールの匂いがした。開けても中は自分の服だけだ。匂いは奥の板の隙間から滲む。懐中電灯を当てると、板の継ぎ目に古いマスキングテープの切れ端が残っていた。裏にボールペンで『図面どおりに戻すな』と書いてある。字は震えていた。テープの端には、小さな赤い丸印もあった。何の検印か分からない。
前の住人を調べた。ネットの不動産履歴に名前は出ない。管理組合の掲示板で、前々任の氏名だけが古い総会議事録に残っていた。問い合わせると、事務員は短く言った。『六〇一は、納戸の件で一度揉めた部屋です。図面と現況が違う、と。結局、現況優先で決着したはずです』。電話の向こうで紙をめくる音がした。
『納戸はあったんですか』と聞くと、間が空いた。『図面上は、です。現地確認では、壁の内側に空間がある、という話までで止まっています。開けた記録はありません。開けないでください、と前の方も書いて残しています』。メールで送られてきたのは、手書きメモの写真だった。『図面外は、誰の部屋でもない。誰の部屋でもない場所は、誰かが住みたがる。現況を図面に合わせると、合わせた側が図面の住人になる』。
私はクローゼットの奥板を外した。ビスは二本だけで、簡単に外れた。向こうは暗い縦長の空間で、奥行きはおよそ一メートル、幅は六十センチほど。床は同じフローリングの端材が雑に敷かれ、天井は配管がむき出しだった。壁の内側に、薄い鉛筆で間取り図と同じ納戸の輪郭が描いてある。角に日付。入居日の三年前。輪郭の内側に、小さな靴の落書きがいくつも重なっていた。
空間の床に、白いスニーカーが左右そろえて置いてあった。大人の女性物で、土は付いていない。サイズは二十四・五。私の足より小さい。隣の空き室側の壁には、向こうから貼ったらしい石膏ボードの継ぎ目が見えた。指で押すと、わずかにくぼむ。くぼみの周りだけ、塗料の色が新しかった。
管理会社に写真を送ると、翌日『勝手に開口しないで』と強い文面が返ってきた。『図面外の空間は共用部扱いの可能性がある。現状回復の業者に確認させる。それまで触らないこと』。その夜、空間の奥でスニーカーが向きを変えていた。爪先が、私の寝室側を向いている。奥板は閉めたままなのに。
眠れずリビングで過ごすと、寝室のドアの下から冷気が流れた。ドアを開けると、クローゼットは開いており、奥の暗い空間から、間取り図を広げる紙の音がした。懐中電灯の輪の中に、誰もいなかった。床に落ちていたのは、入居時にもらったのと同じ不動産会社の間取り図だった。納戸のマスだけが、黒いボールペンで塗り潰されている。余白に小さな字。『現況に合わせました。次はあなたの番です』。
私は奥板を戻し、ビスを増やして止めた。翌朝、寝室の奥行きを測ると、昨日よりさらに五センチ短くなっていた。壁が、内側へ寄っている。大工の友人に再び来てもらうと、顔が強ばった。『ボードの位置が動いてる。人が押した跡じゃない。湿度で反った、とも違う。測点を写真に残しておけ』。彼は開口を勧めなかった。帰り際、図面の納戸のマスを指で隠して見せた。『見えないことにした空間は、見えない側のルールで増える』。
夜、壁の内側でノックが三回あった。応えると入れ替わると、どこかで読んだ気がして黙った。ノックは五回になり、やがて止んだ。代わりに、スマホのメモアプリが勝手に開き、間取りのラフ画が生成された。寝室の横に『納戸(使用中)』とラベルが付き、面積の数字が秒ごとに増える。増えた分だけ、計測アプリ上の寝室が削られていく。
私は荷物をまとめ、ウィークリーマンションへ移った。鍵は管理会社へ返却せず、預けた。『原状を見てから手続きを』と伝えたメールに、既読は付いたが返信はない。三日後、事務から短い連絡が来た。『六〇一、内覧希望が入っています。図面は最新のものを使います。納戸あり、で出しています。所有者確認の書類も別途送ります』。
添付の図面を開いた。寝室横に、はっきりと納戸が描かれている。寸法も綺麗に合っている。写真欄には、白い扉の納戸が写っていた。私の家具は写っていない。床に、あの白いスニーカーがそろえて置いてある。扉の取っ手に、赤い丸のシールが一つ。
電話をすると、事務員の声が少し遠かった。『内覧用の写真は、売主提供です。前の所有者……ではなく、その前、でしょうか。データ上、いまの所有者は別名義になっています』。私は自分の登記識別情報を確認した。名義は確かに私だ。なのに図面の作成者欄には、見知らぬ名前があった。作成日は、私が退去した翌日になっていた。
その夜、ウィークリーの部屋のクローゼットを開けると、奥板の継ぎ目から段ボールの匂いがした。懐中電灯を当てると、マスキングテープの切れ端が貼ってある。裏の字は前回と同じ筆跡ではなかった。『図面どおりに戻しました。次は、現況の方が遅れます。遅れた現況は、図面外へ収納されます』。
私はテープを剥がし、捨てた。朝、不動産アプリの『お気に入り物件』に、見知らぬ二LDKが追加されていた。駅から十二分、築十八年、南向き。間取り図の納戸のマスが、ゆっくり点滅している。点滅のたびに、面積の小数点が一つずつ増えていく。誰かの現況が、誰かの図面に追いつくまで。画面の隅に、小さな警告文が出た。『この物件の現況確認は、図面外です』——。