駅から七分の、築三十年近いワンルームマンションの壁に、小さな黒い箱が付いていた。テンキー付きの合鍵ボックスだ。短期賃貸のホストが、ゲストに鍵を渡すために使うやつである。私はその建物の住人ではない。通勤路の近道として、細い通路を横切るだけだった。ある朝、箱の液晶に『解錠』の文字が一瞬だけ残っていた。次の瞬間、暗転した。誰かが取り出した直後だったのかもしれない。
ネットで『合鍵ボックス 都市伝説』と検索したのは、同僚が昼休みに話したからだった。『誕生日を入れると開く箱があるらしいよ。開いた人は、自分の部屋じゃない部屋の鍵を渡される』。笑い話のつもりだったのだろう。コメント欄には『開いた』『中に自分の名前のタグが付いた鍵があった』『開くな』が混在していた。写真はどれもピントが甘く、建物名は塗り潰されている。
私は好奇心で、帰り道に立ち止まった。テンキーは黒いゴムで、数字はすり減っている。試しに自分の生年月日八桁を押した。短い電子音のあと、蓋が外側へ開いた。中には銀色の鍵が一本。キーホルダーには『四〇三』とだけ書かれた白い札。札の裏に、細い字で『返却時は必ずボックスへ。退室処理は自動では完了しません』とあった。
四階へ上がった。四〇三のドアは古い木目調で、表札はない。チャイムの下に『短期』のシールが半剥がれで残っていた。鍵は滑らかに回った。中は狭いワンルームで、カーテンは閉まっている。エアコンのリモコンはテーブルの中央。冷蔵庫にはペットボトルの水が二本。ベッドはきちんと整えられ、枕元にタブレットが置いてあった。電源を入れると、ホーム画面に『滞在ガイド』のアイコンだけがあった。
ガイドは丁寧だった。無線の接続番号、ゴミの出し方、近隣への配慮。最後のページに赤字で『滞在中は外の合鍵ボックスを他人に教えないでください。この物件の掲載は終了しています。新規予約は受け付けていません』とあった。終了しているのに、鍵は今も使える。予定表を開くと、最終退室予定日は三年前の八月八日になっていた。今日と同じ月日だった。
クローゼットを開けると、男女の服が少しずつ掛かっていた。サイズはバラバラで、誰か一人のものではない。棚の奥に古いゲストノートがあった。最初の頁は『楽しかったです。また来ます』という普通の感想だ。中盤から字が乱れる。『ドアの外で足音がする。四〇三は自分だけのはず』『ボックスの暗証が、自分の携帯番号に変わっていた』『退室ボタンを押しても、状態が滞在中のまま』。
最後の記入は日付だけだった。三年前の八月七日。本文はない。その下に、別筆跡で一行。『次のゲストは、開ける人です』。ノートの角には、小さな赤い丸シールが貼ってある。管理会社の検印のようにも、誰かの印のようにも見えた。
部屋を出て鍵をボックスへ戻した。蓋を閉じると、液晶に『施錠』と出た。安心したくて、もう一度自分の誕生日を入れる。今度は『失敗』だった。代わりに、自分の携帯電話の番号十一桁が、薄い緑で一桁ずつ浮かんで消えた。着信はない。通知もない。ただ、番号を知っていると示されただけだった。
家に帰ってから、短期宿泊の大手サイトで建物名を検索した。該当物件は『掲載終了』とだけ出て、写真の縮小画像は灰色だ。キャッシュに残った古い口コミを、別サイトの写しで見つけた。星は高評価が多い。だが直近の三件だけが違った。『ホストが部屋にいた』『退室できない』『合鍵ボックスが、帰りの駅でも見えた』。投稿者名は頭文字だけ。一人の本文に、私の苗字と名前が、ひらがなで混ざって書かれていた。
翌朝、通勤路のボックスはまだそこにあった。液晶は暗い。隣の壁に、新しい小さな箱が一つ増えていた。色は白。テンキーの配列が左右逆で、数字の四と七の印字が薄い。白い箱の側面に、シールで『四〇三副』とある。建物の郵便受けに四〇三副はない。管理会社の看板にもない。
昼休み、同僚に『あの話、どの建物?』と聞くと、首を傾げられた。『合鍵ボックス? 聞いてないけど。都市伝説って、だいたい誰かの実話の抜け殻だよ』。私は笑って話題を変えた。携帯の写真フォルダには、昨夜撮ったはずの黒い箱の写真がない。代わりに、見知らぬ部屋の天井と、枕元のタブレットのロック画面があった。ロック画面の時計は、三年前の八月八日、午前二時十四分を指したまま止まっていた。
その夜、自宅のドアノブに、銀色の鍵が一本ぶら下がっていた。キーホルダーの札は『四〇三』。裏の文面は昨夜と少し違った。『返却時は必ずボックスへ。退室は、次の開ける人の承認が必要です』。ドアの外の呼び鈴が鳴った。モニターには誰も映っていない。下の方に、小さな黒と白の箱が二つ、画面の端で並んで見えた。
私は鍵を握ったまま、玄関を開けなかった。携帯に、見知らぬ番号から短い伝言が届く。本文は一文だけだった。『四〇三の滞在延長を承認してください。否認すると、現在地が次のボックスに登録されます』。位置情報はオフにしている。なのに、続けて地図の縮小画像が添付されてきた。印の位置は、自宅だった。
否認も承認もしなかった。朝になると伝言は消えていた。消えたあとで、ホーム画面に『滞在ガイド』のアイコンが増えていた。開くと、住所欄は自宅になっており、部屋番号欄だけが空欄だった。空欄を押すと、候補が一つだけ出る。『四〇三』。その下に小さい注意書き。『合鍵は共用です。最後に開けた人が、次のホストになります』。
私はいま、通勤路を変えた。それでも駅のホームの柱や、会社のビルの喫煙所の壁に、黒い合鍵ボックスが目に入る。液晶はいつも暗い。たまに、誰かの指が数字を押す音だけがして、蓋が開く音がする。中を覗いた人の顔は、どれも少し眠そうで、キーホルダーの白い札を見てから表情をなくす。札の数字が、自分の部屋の番号だったかのように。
昨夜、自宅のドアの外側に、白い合鍵ボックスが追加されていた。暗証は、もう入力しなくても開く。中には鍵がない。代わりに小さな紙片が入っていた。『ホスト登録が完了しました。次のゲストの誕生日を、あなたが決めてください』。紙の裏に、今日の日付と、見知らぬ八桁の数字。誰かの生年月日らしい並びだった。
管理会社へ問い合わせた日もある。担当は丁寧に『当物件に四〇三の短期運用記録はございません』と答えた。『通路の合鍵ボックスも、組合承認の設備ではありません。勝手に付けたものなら撤去します』。二日後、現場を見に来たという報告メールが届いた。添付写真には、黒い箱も白い箱も写っていなかった。壁には四本のビス穴だけが並び、周囲の塗料が新しい。メール末尾の一文が気になった。『撤去時、中は空でした。鍵は既に次の保管場所へ移されたものと推測します』。
夜、四〇三の前まで戻った。ドアの下から薄い光が漏れている。耳を当てると、タブレットの操作音と、誰かがノートに字を書く音がした。ノックはしなかった。すると内側から、ごく小さく鍵が回る音がして、ドアが数センチ開いた。隙間から見える床に、私の通勤靴と同じ泥の跡があった。開いた隙間の向こうで、滞在ガイドの合成音声が言った。『ホストの帰宅を確認しました。ゲストの誕生日入力を、開始してください』。
私はその数字を、まだどこにも入れてない。入れた瞬間、別の誰かの通勤路に、新しい箱が増える気がするからだ。だが携帯の滞在ガイドは、毎日一度だけ通知を出す。『ゲスト待ちです。ボックスが空です』。通知を消しても、合鍵の形をした印が、画面の隅で点滅をやめない。点滅の間隔は、だれかがテンキーを押す速さに似ている——。