深夜二時。ラジオから流れるはずのない周波数で、私はあの曲を聴いてしまった。
きっかけは些細なことだった。眠れない夜、私は何となくFMラジオのチューナーを回していた。普段聴く局はすでに放送終了の時間帯で、どの周波数も白いノイズばかりだった。右へ、左へ。砂嵐の中を指先でたどっていくと、ふと、音楽が聞こえた気がした。
受信メーターは八十メガヘルツの少し左。このあたりに民間の局はないはずだ。だが確かに、かすかなピアノの音が流れている。曲は『また明日』。十年前にヒットしたバラードで、私はメロディを覚えていた。いや、知っていたのは私だけではなかった。それは、元カノの美咲が一番好きだった曲だった。
美咲は三ヶ月前、交通事故で亡くなった。最後に会ったのは、別れ話を切り出した夜だった。彼女は泣かなかった。「最後に一曲だけ、聴かせて」と言って、コンビニの駐車場で『また明日』を流した。曲が終わるまで、私たちは何も言わなかった。そして私は彼女の手を離して、車を走らせた。翌朝、彼女は同じ道を歩いていて、あの交差点で轢かれたらしい。遺品整理のとき、美咲のスマホにはあの日のまま曲が残っていた。再生回数は、最後の夜から増えていない。私はその日以来、この曲を聴くことができなかった。
なのに今、深夜のノイズの向こうから『また明日』が流れてくる。しかもそれは、あの夜に彼女が流したのと同じフェードインだった。歌詞の入らない前奏が終わり、歌い出しの直前で、雑音の底から声が混ざった。
「……まだ、いるの?」
私は耳を疑った。それは歌ではなかった。確かに、美咲の声だった。
翌日、私はラジオのことをネットで調べた。すると、似た体験の書き込みを見つけた。『ミッドナイト・リクエスト』——亡くなった人が最後に聴いていた曲を、毎晩二時から流す周波数がある、という都市伝説だ。その曲を聴いてしまった者は、放送が夜ごとに「少しずつ進む」のを聞くことになる。曲が終わるまで、と。終わったら、どうなるのか。書き込みはそこで途切れていた。最後に投稿した人物のアカウントは、半年以上更新がない。匿名掲示板の住人たちは、それを「聴き終えた人」と呼んでいた。聴き終えた者は、二度と書き込まない。そういうルールなのだと。
昼間にあの周波数を合わせても、何も聞こえなかった。ノイズすらなかった。チューナーの針はただ静かに落ちて、スピーカーからは無音が流れるだけ。放送は、夜の二時だけに存在する。私は一度、その事実を確かめるために、あの周波数にマーカーをつけた。針の位置を覚えておけば、昼間にもう一度確かめられると思ったのだ。しかし、昼の無音を聞いた瞬間、背筋が寒くなった。放送が存在しないのではなく、私が聴いたあの声が、昼の世界には存在しないのだと、はっきり分かったからだ。
その夜、私はまたチューナーを回した。二時の少し前、あの周波数に指を止める。ノイズ。ノイズ。そして、二時ちょうど——『また明日』が流れ始めた。
昨夜と同じ、前奏。だが今夜は、歌が始まる。美咲の声が、雑音に混じって歌う。録音された歌ではなく、その場で歌っているような、生々しい声だった。
「また明日、また会おうね、なんて、言えないまま」
歌詞は知っている。だが、一箇所だけ違った。原曲では「言えないまま」で終わる部分。彼女の声は、続けた。
「……まだ、帰らないで」
私はラジオの電源を切った。部屋が静かになった。だが、その静けさの中で、机の上のスマホが光った。着信画面に表示されたのは、登録していない番号。いや、登録していないわけがない。それは美咲の番号だった。三ヶ月前に解約されたはずの、彼女の番号。通話ボタンに指が触れた瞬間、受話口から聞こえたのは、ラジオと同じ声だった。
「ねえ、あなたは、どの曲を聴いてるの?」
それから三日、私はラジオをつけなかった。代わりにスマホの電源を切り、イヤホンを外してベッドに横たわった。だが、眠りにつく直前、天井からかすかに音楽が聞こえた。隣の部屋だろうか。いや、このマンションの壁は厚い。それに、その曲は——『また明日』ではなかった。
耳を澄ます。知らない曲だった。だが、どこかで聴いたことがある。そうだ。これは、美咲が遺したプレイリストの最後の曲だ。『わたしの時間』。彼女が生前、「これを聴きながら眠るの」と笑って見せてくれた、眠り用の曲。彼女はこの曲を流しながら、毎晩眠っていた。つまり、これは彼女が最後に聴いていた曲なのだ。放送は進んでいる。あの夜に止まったままだったはずの時間が、少しずつ、未来へ向かって動き出している。
誰が流している。誰が。
翌朝、私は美咲の実家を訪ねた。彼女の部屋は、三ヶ月前と変わらずそのままだった。ベッドサイドにはCDラジカセ。私は蓋を開けた。中には、彼女がいつもかけていた『わたしの時間』のCDが入っていた。電源は入っていない。コンセントからプラグも抜かれている。なのに、CDの表面にはうっすらと指紋がついていて、それはついさっき、誰かが触ったかのような、生温かいものだった。私はCDを抜いて、自分のコートの内ポケットにしまった。もう、誰にも触らせないために。
その夜、私はあの周波数に戻った。もう逃げられないと思った。二時。ノイズが消えて、『わたしの時間』が流れ始める。美咲の声は、今夜は歌わなかった。代わりに、曲が終わる少し前、彼女は言った。
「最後のリクエスト、送るね。あなたの番よ」
曲が終わった。静寂が落ちる。そして、ノイズの中から、新しい曲が流れ始めた。それは私の知らない曲だった。どこかで聴いた覚えもない。今まさに、この瞬間のために流れている曲。私が最後に聴くことになる、一曲。アナウンスが入る。美咲ではない、別の誰かの声で。「こちら、ミッドナイト・リクエスト。次のリクエストは、『あなたが最後に聴く曲』です。リクエスト主は——あなたです」
私はまだ生きている。だが、この放送が終わるまでに、私は聴き終えてしまう。今夜も二時。チューナーを回す指は、もう止まらない。あの周波数が、私を呼んでいる。そして今夜、私は初めて気づく。この部屋のどこかで、私が知らないうちに、誰かがラジオのスイッチを入れている。その誰かは、もう何日も前から、ここにいる。