夏休みに入って二週間。私はプール清掃の当番を押し付けられた。
高校二年の夏。私は水泳部にいたが、肩を壊して辞めた。それでもプールの管理は水泳部の仕事で、帰り支度をしていた私に、顧問が「悪いな、人手が足りなくて」とバケツとデッキブラシを渡した。辞めた部員が最後までやる役割。それが、プール清掃だった。
八月に入り、プールの水は一度抜かれていた。コンクリートの底に残るのは、排水口の周りに溜まった枯れ葉と、緑色のヘドロの膜。私はその日、水位がまだ膝ほど残ったプールで、排水口の掃除を任された。
排水口はプールの底の中央、浅い方の端にある。蓋を外し、網ですくう。枯れ葉、髪の毛、銀色の輪ゴム。それから──白い花。
それは一輪の百合だった。造花かと思った。だが触れると、濡れてひんやりとした花弁が、かすかに生花の匂いを放った。水を抜かれて何日も経つというのに、萎れもせず、澄んだ白を保っていた。まるで、今しがた誰かがここに置いたばかりのように。
「おい、それに触るなよ」
声に振り返ると、同じ清掃当番の先輩、三上さんがプールサイドに立っていた。水泳部のキャプテンで、辞めるまで何度か声をかけてくれた人だ。三上さんは私の手にある花を見て、少しだけ眉を寄せた。
「それ、ずっと前から浮いてるやつ。知ってるでしょ、うちのプールの七不思議」
「七不思議なんて、もう流行らないよ」
「そうじゃなくて」と三上さんは首を振った。「あれは『排水口の花』って呼ばれてる。毎年、水を抜いた日に現れるんだ。絶対に触っちゃいけない。取ったら、その年はプール開きができなくなるって言われてる」
「……ホントに?」
「ホントかどうかは知らない。でも、あれを取った年のプール開きは、台風で二回も延期になったらしいよ」
私は花を網からそっと落とし、排水口の蓋を戻した。白い花は排水口の脇に引っかかったまま、水を吸って浮かんでいた。
その夜、私は眠れなかった。あの花のことが頭から離れない。水が抜かれて何日も経つのに、生きた花のように澄んでいたのが、どうしても気持ち悪かった。
清掃二日目。プールの水は完全に抜かれた。底は乾き始め、白い花だけが排水口の上に、ぽつんと置かれたままだった。枯れ葉が舞う中で、花だけが動かない。まるで、排水口を塞ぐ蓋のように。
そのとき、私は思い出した。子供の頃、祖母に聞いた話。
「排水口っていうのはな、水が抜けていくところや。でもな、逆もあり得るんやで。水が戻ってくるところ、とも言えるんや」
井戸の話だったと思う。井戸は水を汲むところであり、水が帰るところでもある。排水口も、同じことかもしれない。プールの水を抜くとは、つまり、あの花の家から水を奪うことなのかもしれない。
三上さんに聞いてみようと思ったが、彼女は今日は来ていなかった。キャプテンは最後に来るらしい。私は一人で排水口の掃除を再開した。蓋を外し、網を入れる。そのとき──
排水口の奥から、かすかに水音が聞こえた。
音は水が「こぼれる」音ではなく、水が「上がってくる」音だった。ごぼ、ごぼ、と。排水口の奥は、もう水が完全に抜けたはずだった。なのに、奥から水が戻ってくる。逆流。
私が慌てて網を引き上げた瞬間、排水口の蓋が、内側から、ぱん、と弾かれた。
水が溢れた。プールの底いっぱいに、澄んだ水が広がっていく。そしてその水に乗って、白い花が一つ、排水口から流れ出てきた。さっきまで排水口の脇にあったはずの花。いや、違う。それはもう一つ。私が昨夜見た、水を吸って膨らんだ花とは別の、まだ「新しい」白い花が、排水口の底から、まるで誰かに手を引かれるようにして浮かび上がってくる。
水面が静かになる。花はプールの中央に漂い、くるくると回りながら、私の方へ。
「ねえ」
背後から声がした。三上さんが来たのかと思った。だがプールサイドには誰もいない。水音しかしない。
「ねえ、あなた、あの花を取らないでくれたね」
その声は、三上さんではなかった。もっと若くて、か細い、女の子の声。水の底から、響いてくる。
「二十年前、私がそこで、溺れたの。プール開きの日に。みんなは、泳げないのに無理して入った子だって言うけど、違うの」
声は続ける。私は足がすくんで、動けなかった。
「私はね、このプールの水の中で、初めて泳げたの。水に浮かぶのが、すごく気持ちよくて。だから、あの花をくれた人がいるの。泳げるようになったお祝いって。白い百合の花」
「……でも、誰も知らない。あの日、私を助けようとして、誰かが花を投げ込んだこと。みんな、忘れてる」
「水を抜かれると、私は眠れないの。水が全部、排水口から出ていってしまうから。だから、花を置いてるの。水が戻ってくる日まで。──ねえ、そろそろ、水が戻る日でしょ?」
私は気づいた。プールの底は、もう膝の上まで水が溜まっていた。逆流した水が、とめどなく溢れ続けている。水位は、数分ごとに上がっていく。
「水が戻ったら、私はまた泳げるの」
声が、近くなる。私はふと、水の中を見た。自分の足元。その向こう。排水口の真上に、白い花が、もう一つ、浮かんでいる。さっき、私が網から落としたはずの花。
そして、その花の下の水面に、ゆらりと、白い影が映った。泳ぐために、水の中に入ろうとしている、女の子の影。
「──入らないで」
私は叫んだ。それと同時に、手に持っていたデッキブラシを、水面に叩きつけた。水しぶきが上がる。白い花が、三つ、四つ、波に揺れる。
すると、あの声は、ふっと、消えた。
静寂。水は、満ちたまま、動きを止めた。
私はプールから這い上がり、三上さんが来るまで、プールサイドで震えていた。彼女に「排水口の蓋、開いたままだよ」と言われて、私ははっとした。いや、と私は首を振った。あの蓋は、開いてはいけない。
その年、プール開きは例年通りに行われた。水は澄んでいて、誰も、あの白い花を見なかった。だがプール開きの日、私はプールの中央に、たった一つ、白い百合の花が浮かんでいるのを見た。静かに、くるくると回りながら。
そして、私の耳元で、あの声がした。
「ありがとう。あなたのおかげで、今年は泳げる」
──水を抜くたび、あの花は、次の夏を待っている。あなたの学校のプールに、白い花が浮かんでいたら。それは、もう誰にも取られないでほしい、と願っているのかもしれない。それとも、次の水が戻る日を、数えているのかもしれない。