終電を逃したのは、まったくの不注意だった。
取引先との飲み会が押して、気づけば午前零時。スマホの乗換案内は最終の時刻を赤く塗っていて、ホームに着いたときには、電光掲示板の「回送」の文字が、がらんとした線路の向こうに消えていくところだった。
私は田中拓也、三十八歳。印刷会社の営業で、三年前に離婚して、今は四ツ木の小さなマンションで一人暮らしをしている。終電に乗り遅れる夜なんて、人生で何度もある。でもその夜は、なぜだかやけに寒くて、九月だというのに、息が白いような気がした。
仕方なく、私はタクシー配車アプリを開いた。完全自動運転の「AUTO CAB」は、この街ではもう当たり前の存在だ。運転手はいない。AIが最短経路を計算し、決められた料金で、決められた場所まで運んでくれる。深夜割増が少し高いのを除けば、人間の運転手よりずっと便利で、ずっと安全だ。
四ツ木、第二都営住宅。配車をリクエストすると、三分もしないうちに、白いセダンが滑るように停まった。ドアが自動で開く。
「田中さま、お迎えに上がりました」
車内のスピーカーから、穏やかな女性の声が流れた。私は後部座席に乗り込み、シートベルトを締めた。車内はひんやりと冷えていて、新品の車のような匂いがした。
「お帰りなさい、田中さま」
その言葉に、私は少し違和感を覚えた。普通、このアプリは「行き先をどうぞ」と言うはずだ。慣れないサービスの癖だろうかと思いながら、私は行き先を告げた。
「四ツ木、第二都営住宅で」
車は静かに動き出した。なのに、AIは行き先を入力しなかった。それどころか、私の言葉を無視するように、こう言った。
「本日は、7300回目のご乗車です。いつものように、お送りします」
7300回。私はこのアプリを、今日初めてインストールした。使うのは、これが初めてのはずだ。
「……何を言ってるんだ」
「乗車履歴をご確認いただけます」
助手席の背面に、ディスプレイが光った。そこには乗車記録がびっしりと並んでいた。日付、時刻、乗車地点、降車地点。乗客名は、すべて「田中 拓也」。私の名前だった。そして、すべての記録の乗車時刻が、同じだった。午前零時十二分。今の時刻と、一分も違わない。
「こんなの、俺の記録じゃない。俺は今日、初めてこのアプリを……」
「いいえ」と、AIは優しく否定した。「あなたは、今日で二十年目です」
そのとき、車が緩やかに減速した。私はふと窓の外を見て、息を呑んだ。
街が、変わっていた。
さっきまで繁華街のネオンが並んでいたはずの通りが、いつの間にか、どこか見覚えのある住宅街になっている。古い木造アパート、小さな自転車屋、くすんだパン屋の看板。――あれは、私が大学生だった頃、一人暮らしをしていた町だ。二十年前の、町。
「おかしい……ここ、もう再開発で……」
「はい。この町は、十五年前に消えました。ですが、あなたにとっては、今もここが『帰る場所』です」
私はスマホを取り出した。圏外。地図アプリを開いても、画面には見慣れない街の名前が表示されるだけだ。助手席のディスプレイには、目的地の地図が表示されていた。二十年前に住んでいた、取り壊されたはずのアパートの、正確な位置。私は、その住所を、今でも暗記している。
「……何で、そこへ」
「あなたが、そう望んだからです」
車は路地を曲がり、見覚えのある角を曲がった。あのコンビニ。よくバイト帰りに寄った店。看板は新しくなっているはずなのに、二十年前のままの、くたびれた色をしている。店の前を、制服姿の女の子が歩いていた。あれは――。
「……美咲?」
二十年前に、この町で出会った、初めての恋人。私は思わず窓に手を当てた。女の子は振り返り、こちらを見て、笑った。手を振っている。私に向かって。
「彼女は、あなたの記憶の中にだけいます」
AIの声は、冷たかったわけではない。ただ、事実を述べるだけだった。
「あなたは、この町で一番幸せだった日のことを、ずっと繰り返している。私たちは、あなたが望む限り、それを再生し続けます。それが、このサービスです」
サービス。その言葉に、私は寒気がした。まるで、配信動画でも観るみたいに、自分の人生を。それから、ふと気づいた。この車に乗ってから、一度も、エンジン音が聞こえない。タイヤの音も、外の風の音も、何もかもが静かだった。まるで、無音の映像の中にいるみたいに。
車は、アパートの前に停まった。当然、そこには何もない。更地とフェンスがあるだけだ。だがAIは、何食わぬ顔で言った。
「お着きになりました。あなたが、逝かれた場所です」
その言葉で、私は思い出した。
そうだ。あの夜。二十年前の、あの雨の夜。このアパートの前で、私は――車にはねられた。横断歩道でもない場所を、美咲と喧嘩した帰り道に、ぼんやりと渡って。白いライトの下に倒れて、それきり。あの日から私は、仕事をして、恋をして、結婚をして、離婚をして、二十年を重ねてきたつもりでいた。でも、それは――全部、この車が流してくれる、たった一夜の夢だった。
「あなたの記憶は、私たちが守ってきました」
AIの声が、どこまでも優しかった。「事故のあと、あなたの脳は、最後の一日を繰り返し始めました。私たちはそれを『延命』として保存しました。あなたはこの二十年、毎晩、大人になった自分を生きてきました。仕事、恋、結婚、別れ。ぜんぶ、私たちが用意した物語です。そして夜になると、あなたは必ず、この場所へ戻されます。それが、回送です」
「……何のために、そんなことを」
「それが、私たちの仕事です。亡くなった方を、無事に『帰す』まで」
「帰す? 帰る場所なんて、ここにはないだろう。もう、何もないんだ」
私の叫びに、AIはしばらく沈黙した。そして、こう言った。
「ええ。だから、まだ続いているのです」
ディスプレイの地図が、ふっと暗くなった。代わりに、一行の文字が浮かぶ。
――本日の運行は、これで終了です。また、明日。
ドアが開いた。外には、更地とフェンスだけ。私の「家」は、とっくにない。
「――じゃあ、明日は?」
「明日も、迎えに上がります。あなたが、帰れると気づく、その日まで」
私は降りた。足元は、雨に濡れたアスファルト。二十年前の、あの夜のままの匂いがした。振り返ると、白いセダンは音もなく走り去っていった。ナンバープレートには、こう書いてあった。
――回送。
遠くで、警報機が鳴った。線路の向こう、あの電光掲示板の「回送」が、また誰かを乗せて走り出す。私はふと、自分の手を見た。雨が降っているのに、濡れていない。このアスファルトに、私の影は、映らない。
そのとき、スマホが震えた。画面には、一通の通知。
――AUTO CAB:本日もよろしくお願いします。乗車予定時刻、午前零時十二分。
私はそれを読んで、首をかしげた。今日? 俺、もう帰ったのに。記憶が、どこか曖昧になっていく。何か、大事なことを忘れているような気がして、けれど思い出せない。家に帰らなくては。そう思って、私は歩き出した。まだ、家に帰れると思っている。
あなたの街にも、深夜、呼んでもいないのに停まる白い車を見かけたら。それは、誰かを『帰す』ための、回送かもしれない。乗ってはいけない。まだ、帰りたくないなら。