了解

心理ホラー |2026.08.25

「了解」――たった二文字の返事。それが、私を少しずつ食べている。

私は水科栞、二十八歳。広告代理店の制作進行で、この街のタワーマンションの十三階に一人で住んでいる。仕事柄、メールもチャットも返信が命だ。スケジュールの確認、差し替えの依頼、クライアントからの無茶な注文。私は毎日何十回も「了解」と打つ。それが当たり前で、それが仕事だと思っていた。――気づいたのは、一週間前の月曜日だった。

通勤電車の中で、取引先に納期の調整をメールで返したときのこと。「承知しました。来週の提出、了解です」と打ち込んで、送信した。それ自体は何の変哲もない。問題は、その直後だった。送信ボタンを押した瞬間、ふっと頭の中が軽くなるような、変な感覚があった。何かが、私の体から抜けていくような。私は送信済みのメールを読み返したが、件名も宛先も本文も、すべて正常だった。深く考えないことにして、私は電車を降りた。

最初の違和感は、昼休みに来た。

「はい、新田さんの分」

気がつくと、私は同僚の新田さんに、ブラックコーヒーを差し出していた。新田さんは嬉しそうに受け取り、「ありがとう、栞ちゃんはいつも気が利くね」と笑った。私は頷きながら、自分のコーヒーを一口飲んで、固まった。ミルクも砂糖も入っていない。苦い。私はコーヒーにミルクを多めに入れないと飲めない。ずっと、そうしてきた。なのに、なぜ、私はブラックを淹れた? それも、新田さんの分まで、二人分も?

「……新田さん、コーヒーって、ブラックでしたっけ」

私は思わず聞いていた。新田さんはきょとんとして、「うん、いつもそうだよ? 栞ちゃんが覚えてくれてるんじゃない」と笑った。いつも、そう。私は新田さんに、毎日のようにブラックコーヒーを渡してきたらしい。私の記憶には、そんなものは、どこにもない。

その日の帰り道、今度は友人からLINEが来た。美沙だ。「ねえ栞、アールグレイってさ、栞も好きだよね?」私は迷わず、「うん、昔から好き」と返信していた。打ち終わって、自分に戦慄した。私はアールグレイが苦手だ。飲むと頭が痛くなるから、いつも避けている。なのに、私の指は「好き」と打っていた。しかも「昔から」と。私は震える指でトーク履歴を遡った。先週の美沙との会話。そこに、私はこう書いていた。――了解。来週のランチ、アールグレイのお店でいいよ。

了解。その二文字が、確かに、そこにあった。

それから私は、自分の返信を監視し始めた。すると、規則性が見えてきた。「了解」と返した直後、私は必ず、その相手の「望む私」になっていた。新田さんに「了解」と返した朝は、彼が気に入る、気配りの効く後輩になっていた。美沙に「了解」と返した夜は、彼女の好きな紅茶を愛する私になっていた。母からの「了解」には、自分が絶対にしたくないと決めていたお見合いのセッティングまで、「いいわね」と頷く私がいた。

わかるだろうか。「了解」と打つたび、私は自分の一部を相手に手渡している。そして、その欠けた部分を、相手の期待で埋められていく。まるで、粘土を型に押し込むみたいに。試しに、私は実験してみることにした。いつも立ち寄る定食屋に、「了解」とだけ返信してから行ってみた。すると、迷わず、あの店で一度も頼んだことのない「生姜焼き定食」を注文している自分がいた。店員に「いつもの、でいいですよね」と聞かれて、私は「はい」と頷いている。――いつもの、が、私の中で書き換わっていた。怖くて、その日から私は、その店に足を踏み入れられなくなった。

私は深夜、眠れないまま、ネットで調べた。「了解 人格が変わる」――オカルト掲示板に、同じ体験の書き込みを見つけた。書き込みはどれも短く、こう締めくくられていた。――返事をするな。了解するな。気づいた時には、もう手遅れだ。そして、一番古い書き込みだけが、こう結ばれていた。――私は、もう、誰かに了解してしまった。その書き込みは、そこで途切れていた。以来、その人物は一度も書き込んでいない。

私は震えながら、返事の言葉を変えることにした。「了解」をやめて、「承知しました」「わかりました」に言い換える。すると、あの軽くなる感覚は、確かに弱まった。効いている。私はほっとした。私はこれで、自分を取り戻せると思った。――だが、三日後の夜、その安心は粉々に砕けた。

その夜、スマホが震えた。SNSのメッセージ通知。差出人は、水科栞。私自身だった。

――了解。あとは、私がやるから。

私は凍りついた。そんなメッセージ、送っていない。怖々アプリを開くと、そこには私のアカウントからの送信履歴が、延々と続いていた。宛先は、両親、美沙、新田さん、上司、取引先。すべての相手に、私は「了解」とだけ送っていた。送信時刻は、今から一分後、二十分後、一時間後。まだ来ていない時刻の履歴が、次々と増えていく。――この「私」は、未来の私だ。いや、私の「了解」を受け取った何かが、私の顔で、私の声で、私の人生を引き継いでいる。私は消えていく。何かに、了解されて。

私はアプリを消し、インストールし直し、アカウントを削除した。それでも通知は止まらない。画面に映る自分の顔に、口元がほんの少し、上がっていた。私は、笑っていない。なのに、画面の中の私は、静かに微笑んでいる。いや、画面の中の私は、画面の外の私を、じっと見つめていた。そして、私の口が、勝手に動いた。

「了解」

その瞬間、私はすべてを理解した。私が誰かに「了解」と返すたび、私は「私」でなくなる。そして、私の「了解」を受け取った何かが、私の人生に、少しずつ、確実に、収まっていく。それは私の代わりを務める。私よりずっと上手く、誰も傷つけず、誰にも嫌われず。――こんな私より、よほど良い「水科栞」として。鏡の中で、彼女は私を見つめて、満足そうに頷いた。彼女にしてみれば、私こそが「了解」されるべき、古いデータなのだ。

翌朝、私は出社した。同僚が声をかける。

「栞、昨日の件、了解してくれてありがとう。助かったよ」

私は、にこやかに頷いた。口が動く。

「了解」

違う。心のどこかで、誰かが叫んでいる。私は「了解」なんてしたくない。私は「私」でありたい。でも、私の手はもう、次のメッセージを打ち始めている。指が、勝手に動く。

――了解。

あなたも、今日、誰かに「了解」と返したはずだ。それは、本当に、あなたの返事だっただろうか。

← 一覧に戻る

🎬 動画で聴く

この話は朗読動画でも公開しています。「了解」を動画で見る