押入れ。祖母の家の、廊下の突き当たりにある押入れ。そこにだけ、夏の間じゅう、緑の煙が流れていく。
私は吉田遼平、三十四歳。妻と離婚してから、小学生の娘・美月と二人暮らしをしている。今年のお盆、娘を連れて久しぶりに祖母の家へ帰省した。田舎の、築七十年の古い家。母はもういない。十五年前に病気で亡くなった。祖母は八十六歳、物忘れは増えたが、足腰はしっかりしている。畑もまだ一人でやっている。
到着した夜、夕食の後、祖母は玄関の土間に一枚の蚊取り線香に火をつけた。緑の渦が、青白い煙を立ち上らせる。
「今年は蚊が多いからね。ちゃんと焚いておかないと」
「でもおばあちゃん、蚊なんて一匹もいないよ」
私が言うと、祖母は笑って、それでもね、とだけ言った。
妙だった。この家には、蚊がいない。庭に雨水のたまった植木鉢やバケツを置きっぱなしにしているのに、一匹も飛んでいない。蚊取り線香を焚く必要なんて、どこにもない。それなのに祖母は、毎晩必ず、寝る前に新しい一枚を火にかける。そして、緑の煙が――風もないのに、一直線に廊下へ、突き当たりの押入れへと流れていく。
私は最初、古い家の隙間風だと思った。けれど、煙はあきらかに、押入れを目指しているように見えた。ドアの桟に、年月で焦茶色に変色した跡が残っている。煙が、何年も、何十年も、同じ場所を目指してきた痕。祖母はその跡を拭こうともしない。いや、拭いてはいけないと言わんばかりに。
二日目の夜、布団を並べて寝ようとした美月が、ふと押入れの方を見て言った。
「パパ、あの押入れの中の女の子、煙が薄くなるとこっちを見るの」
私は笑った。気のせいだよ、あれは蚊取り線香の煙が――と言いかけて、言葉を飲み込んだ。美月はもう、押入れに背を向けて、静かに寝息を立て始めていた。私はしばらく、暗い廊下の先の押入れを見つめていた。緑の煙が、ドアの隙間から細く漏れている。吸い込まれていく。誰かが、向こう側で呼吸しているみたいに。
その夜、私は目が覚めた。喉が渇いて、台所へ水を飲みに行く途中だった。廊下の角を曲がったところで、足が止まった。押入れの前で、祖母が立っていたのだ。開け放たれたドアの前で、祖母は中に向かって、小さく話しかけている。
「まだよ。まだ、早い。煙が消えたら、また会いに行くから。もう少しだけ、もう少しだけ待ってておくれ」
背筋が凍った。私は足音を立てないように、その場を離れた。けれど――すれ違いざま、押入れの中がちらりと見えた。暗くて、何も見えなかった。ただ、確かに、中で誰かが息をしている気配がした。湿った、冷たい、深い息が。
翌朝、私は押入れのことを祖母に尋ねようとした。けれど祖母は、何も知らない顔をしていた。昨夜のことも、押入れのことも。ただ、唯一つ。
「お盆の間は、あの煙を絶やしちゃいけないよ。絶対に」
その言葉だけは、はっきりと、強い口調で言った。
私は夜、祖母が寝静まってから、押入れの前に立った。ドアの桟には、焦茶色の煙の跡が、幾重にも重なっている。私は手を伸ばして、ドアを開けた。中は、暗い。古い布団と、湿った畳の匂い。何もない。がらんとした、ただの押入れ。私はほっとした。何だ、何もいない――そう思った、その時。
奥の、暗い隅に、小さな女の子が座っていた。赤い浴衣を着て、濡れた前髪を垂らして。私を見て、にこりと笑った。その顔は――四十年前の、母の子どもの頃の写真に、よく似ていた。
私は悲鳴を上げるのを堪えて、ドアを閉めた。心臓が痛い。走って自分の布団に戻り、美月を強く抱きしめた。美月は寝ぼけて、あ、女の子、出てきたね、と呟いた。
翌日、私は押入れの中を調べた。出てくるのは、古い物ばかり。けれど、一番奥の段の上に、一枚の写真が落ちていた。色あせた白黒写真。幼い姉妹が、川辺で並んで立っている。一人は、祖母の面影がある。もう一人は――祖母と、瓜二つだった。双子だ。裏には、昭和二十八年、と書かれていた。そして、薄く消えかかった文字。
――姉は川へ還った。私は、姉の顔で生きる。
私はその文字を読んで、すべてを悟った。祖母には、双子の姉がいた。七十年前の夏、川で亡くなった。けれど、祖母はその事実を受け入れなかった。自分が、姉の代わりをしている。あの押入れの中の女の子は――還れなかった姉の、置き去りにした「夏」そのものだった。
緑の煙は、蚊よけじゃない。押入れの向こうにある「川」の境界を、煙で覆い隠していたのだ。煙が絶えると、向こう側の女の子が、こちらへ来てしまう。誰かを、川へ連れて行ってしまう。だから祖母は、七十年間、毎晩、煙を絶やさなかった。姉が迎えに来ないように。
その夜、台風が来た。夕方から雨が強くなり、八時すぎに、停電した。私はろうそくを探して、足元を照らした。そして――玄関の蚊取り線香が、消えていることに気づいた。風で、火が吹き消されていた。緑の渦は、もう燃えていない。焦げた渦の半分だけが、灰になって残っている。
私は走った。押入れの前で、足が止まった。ドアが、ほんの少し、開いていた。隙間から、冷たい風が吹いている。そして、中から――川の匂いがした。土と、水草と、深い水の匂い。
私はドアを開けた。中に、赤い浴衣の女の子が立っていた。もう、笑っていなかった。静かに、私を見つめている。その背後の暗がりに、川があった。夕焼けの川。子どもの頃、母の実家の近くで見た、あの川の匂い。
「……迎えに、来たの」
女の子は、小さく頷いた。いや、私にではない。私の後ろに、向かって。
振り返ると、祖母が立っていた。ろうそくの光に照らされて、祖母は泣いていた。涙を、静かに流していた。
「遅くなって、ごめんね」
祖母はそう言って、私の手をそっと退けた。そして、押入れの中へ、一歩、踏み入れた。ドアが、風もないのに、静かに閉まった。
「おばあちゃん!」
私はドアを叩いた。けれど、ドアは、開かない。桟の煙の跡が、みるみるうちに、薄くなっていく。七十年分の煙が、川の方へ、流れていく。
朝、ドアを開けると、押入れの中は、空だった。古い布団と、畳の匂いだけ。祖母は、畑で見つかった。草むらに、座り込むように。穏やかな顔で、眠るように、冷たくなっていた。
通夜の夜、私は押入れの前に座っていた。もう、煙はない。蚊取り線香の箱は、使い切っていた。私は思った。これで、終わったのだ、と。七十年の夏が、ようやく終わった――。
その時、美月が、押入れの前に立って、言った。
「パパ、また女の子がいるよ。今度は、すごく大きい女の子」
私は、押入れを開けた。中には、何もなかった。ただ、奥の隅に――一枚の写真が、落ちていた。白黒写真。幼い姉妹が、川辺で並んでいる。裏に、新しく、文字が書かれていた。祖母の、死ぬ直前の字で。
――私は、姉と還る。次は、お前の番だ。
私は写真を、そっと、元の場所に戻した。ドアを閉めた。そして、翌日から、玄関に、新しい蚊取り線香を焚き始めた。緑の渦。青白い煙。風もないのに、煙は、一直線に、押入れへと流れていく。
今年の夏も、その煙を、絶やしてはいけない。私の番が、始まったのだ。