四番のタオル

実話系怪談 |2026.08.27

私が梅の湯で働き始めたのは、二十四歳の夏だった。駅から歩いて十分、住宅街の真ん中に立つ、昭和四十年から続く古い銭湯だ。外壁のタイルはくすんで、暖簾の「梅の湯」の文字は色褪せている。けれど中に入れば、タイル張りの湯船から白い湯気が立ち上って、親子連れや老人たちで、いつも賑わっていた。

番台を預かっているのは、大将こと高橋正雄さん、当時七十六歳。背は低いけれど、湯気の中でも誰より声が通る。私は水商売を辞めて実家に戻ったところで、近所の銭湯でバイトを探していると聞いて、ここに流れ着いた。仕事は単純だ。受付の札を数えて、脱衣所のカゴを片付けて、閉店前に湯船の掃除をする。ただ、一つだけ、どうしても分からないことがあった。

初日、大将は番台の使い方を教えながら、ふと受付の横を指して言った。「四番は、触るんじゃないぞ」。何のことか分からず、私は頷いた。閉店間際になると、常連の老人たちが一人また一人と帰っていく。誰かが「大将、今夜も四番は来たか?」と笑いながら言うと、大将は「さあな」とだけ返す。その度に、みんなの目は、四番のフックのタオルをちらりと見るのだった。

番台の横には、常連のタオルを掛ける木のフックが六つ並んでいる。四番のフックだけ、いつもタオルが掛かっていた。薄い緑色の、古いタオル。朝、開店の準備をすると、それはいつも湿っていた。前の晩、確かに乾かして畳んだはずなのに。

「大将、このタオル、誰のものですか」

ある日、思い切って尋ねると、大将は札の勘定の手を止めて、静かに言った。

「四番は、あの人のやつだ。四十年、毎晩ここに来てた男がいてな。この湯が一番好きだったんだ。俺の父ちゃんの時代から、ずっと」

「その方は、今は?」

「もう来ないよ。四十年前の冬、あの湯船で倒れて、そのまま帰らなかった」

私は湯船の方を見た。白い湯気の向こうで、老人たちの笑い声がしていた。

「だから、四番の湯は絶対に抜くな。湯はいつも、沸かしておくんだ」

大将はそう言って、また札の勘定に戻った。

それから私は、閉店のたびに確かめるようになった。最後の客が出て、戸締まりをする。その前に、必ず男湯の一番奥の区画だけ、湯を抜かずに残しておく。真夜中の湯殿で、静かに湯気を立てている。誰もいないのに、水面が、ほんの少し、揺れていることがあった。

最初は、湯の温度が高いからだと思った。循環の水流だと思った。けれど、ある夜のことだ。閉店後の掃除を終えて、着替えを取るために脱衣所へ戻った時、私は確かに聞いた。

奥の方で、掛け湯の音がした。ちゃぷん、と。誰かが、湯をすくって、肩から流している音。

足音を殺して、湯殿の入り口まで戻った。湯気の向こう、一番奥の湯船の縁に、人影があった。背の高い男だった。濡れた髪を後ろに撫で付けて、静かに湯に浸かっている。私の気配に気づいたのか、男はゆっくりと、こちらを向いた。湯気で、顔ははっきり見えなかった。けれど、確かに、こちらを見て、小さく頷いたように見えた。

私はその場で、足がすくんだ。次に気がついた時には、湯船の縁に、誰もいなかった。水面だけが、少しだけ、揺れていた。

試しに、ある晩、私は四番の湯を抜いてみた。翌朝、四番のタオルは、前の晩よりずっと冷たく、固く乾いていた。そしてその日、開店前に必ず掛かっているはずのタオルが、その朝だけは、掛かっていなかった。昼過ぎに大将に見つかって、私は初めて怒られた。「四番の湯を抜いただろう。もう二度と、するな」。私は何が何だか分からないまま、それ以来、湯を抜くのをやめた。

翌朝、大将に話すと、大将は何も驚かなかった。煙草に火をつけて、こう言った。

「見えたか。あの人は、あの湯が好きだったからな。まだ、帰ってきてるんだよ。湯が冷めないうちに、ちゃんと帰ってくる」

「……帰ってくる、って」

「約束したんだ。あの人はな、いつも一番遅くに来る客だった。店の仕事が終わってから、毎晩、湯を浴びに来てた。あの冬の晩も、一番最後の客だったんだ。閉店間際に、湯船で倒れてた。気づいた時には、もう手遅れだった。病院で、父ちゃんが言った。『お前の湯は、いつも沸かしておくから。安心して、帰ってきな』って。あの人は、それを聞いて、笑って、死んだ。それから四十年、あの人は約束を守ってる。湯が冷めないうちに、必ず帰ってくる。こっちも、守らなきゃならん」

私は、何も言えなかった。

梅の湯には、そういう決まりごとがいくつかあった。四番のフックのタオルは、毎朝、新しいのに替える。四番の湯は、絶対に抜かない。閉店後、一番奥の電灯は、一晩中つけておく。「あの人が帰る場所が、分からなくならないように」と、大将は言った。

秋になって、大将が体調を崩した。病院で検査を受けたまま、番台に戻れなくなった。代わりに、番台を預かることになったのは、私だった。

最初の夜は、緊張した。閉店の支度をして、四番の湯を残して、電灯を点けた。布団に潜って、しばらくすると、奥の方で、ちゃぷん、と音がした。安心した。ちゃんと、帰ってきたんだ、と。

私は毎晩、タオルを替えた。湯を沸かした。電灯を点けた。梅の湯に、その冬も、春も、夏も来た。

大将が亡くなったのは、その翌年の春だった。告別式の帰り、私は梅の湯に戻って、いつものように閉店の支度をした。四番のタオルを替えて、湯を残して、電灯を点けた。すると、奥の湯船の方が、いつもより、ずっと温かい気がした。

布団に入って、目を閉じた。耳を澄ますと、奥の方で、掛け湯の音がした。ちゃぷん、と。それから、もう一つ。ちゃぷん、と。

二人分の、音だった。

翌朝、番台に行くと、四番のフックに、タオルが二枚、掛かっていた。一枚は、あの薄い緑のタオル。もう一枚は、大将がいつも使っていた、焦げ茶色のタオル。どちらも、湿っていた。

私は、新しいタオルを一枚、フックに掛けた。それから、もう一枚。こうして、梅の湯は、今日も、湯を沸かしている。

大将は、あの人のところへ行った。そして今度は、大将の分の湯を、私が沸かしている。いずれ、私の分の湯を沸かす誰かが、この番台に立つのだろう。そうして、この湯は、これからもずっと、誰かのために沸き続ける。それが、この湯の決まりなのだ。

四番の湯は、抜かない。電灯は、点けたままにしておく。

だって、湯が冷めないうちに、みんな、帰ってくるのだから。

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