夜歩き地蔵

怪談 |2026.08.28

祖母の葬式を終えて、私は実家に残った。東京での仕事を休んで、片付けを任されたのだ。田舎の町、国道から外れた旧道沿いに建つ、築六十年の平屋。梁は黒く煤け、障子は黄ばんで、畳の香りが染みついている。祖母が使っていた家財道具はどれも古く、しかし丁寧に手入れされていた。三日目にようやく、物置の奥で、それを見つけた。

物置の隅に、段ボール箱が積まれていた。祖父の遺品だと祖母が言っていた箱だ。私はそれを開けて、中を探った。着物の端切れや、錆びた工具、古い写真の束。その下に、白い布に包まれたものがあった。

小さな石の地蔵だった。掌に載るほどの大きさで、首から下が欠けて、頭部だけが残っている。目鼻は風化してぼんやりとしていたが、口元だけが、かすかに笑っているように見えた。私は手に取って、埃を払った。ひやりと冷たい。石なのに、水で濡れたように。

「それ、処分しちゃだめよ」

声に振り返ると、隣の婆さんが縁側に立っていた。この家のことを何でも知っている、古い付き合いの隣人だ。いつの間に来たのか、土間に上がり込んで、じっと私の手の中を見ていた。婆さんは地蔵を見て、深いため息をついた。

「それはね、『夜歩き地蔵』って言ってね。昔はこの辺りで、それが夜中に歩くって話があったんだよ」

歩く地蔵。私は半信半疑で、婆さんを茶の間に上げて、話を聞いた。

婆さんによると、この地蔵は元々、この家の前に建っていた祠に収められていたものだという。昔、この地蔵を粗末にした男がいた。ある夜、男は縁側で寝ていて、庭の隅から、こつこつ、と小さな足音が近づいてくるのを聞いた。目を開けると、月明かりの中を、小さな地蔵が一歩ずつ、こちらへ歩いてきていた。口元を笑わせたまま、じっとこちらを見て。

男は悲鳴を上げて逃げ出したが、翌朝には、地蔵は祠の台座に、ちゃんと戻っていた。ただ、向きだけが、祠の外、家の方へと変わっていた。それから男の家には不幸が続き、男自身も、一年も経たないうちに死んだという。

「地蔵が歩いたら、その家に死人が出るって、昔から言われてたんだ」

婆さんはそう言って、私の手の中の地蔵を、まじまじと見た。

「あんたの家で、地蔵が動いたんだとしたら……気をつけなさいよ」

私は笑ってごまかしたが、婆さんの目は笑っていなかった。帰り際、婆さんは縁側から一度振り返って、言った。「それ、今夜だけでも、家から出しておきな。外に置いて、夜を明かすんだ。地蔵を家の中に置いたまま寝ると、あれは、ずっと家の中を歩き回るから」。私は、物置に戻すだけにした。迷信だと思った。けれど、夜になり、一人で布団に入ると、どうしても気になって、眠れなかった。

ふと気づくと、私はもう、家の中の音に耳を澄ませていた。風の音、屋根を叩く虫の音、冷蔵庫のモーター音。どの音も、地蔵の足音には聞こえなかった。だから、眠れたのだ。そう思った。

真夜中、布団の中で目を開けていると、確かに聞こえた気がした。

こつ、こつ、と。家のどこかで、小さな足音が。

私は飛び起きて、物置へ走った。電灯を点けると、地蔵は、私が置いた場所とは少し違う、棚の端の方に転がっていた。戻したはずなのに、まるで少し歩いて、ここまで来たかのように。いや、動くはずがない。動くはずがない、と思いながらも、私はその夜、地蔵を玄関の外に出した。婆さんの言う通りに、家の外に置いた。けれど、それでは足りない気がした。私は思い切って、家の裏手の藪に埋めた。ここから遠くへ離してしまおうと。土を掘り、地蔵を置き、埋め戻した。手のひらの冷たさが、いつまでも残っていた。

それから二晩は、何もなかった。三日目の朝、私は裏手の藪を見に行った。埋めたはずの地蔵は、そこに無かった。私は埋めた場所を掘り返した。空っぽだった。背筋が冷たくなって、私は家の周りをぐるりと探した。すると、地蔵は、埋めた場所から少し離れた、家の壁際に、ぽつんと転がっていた。向きは、家の方へ。口元は、笑ったまま。土も付いていない、乾いたままの姿で。

私は、全身の毛が逆立つのを感じた。地蔵は、家に戻ろうとしている。いや、戻ってきた。

その日の夕方、私は母に電話をした。祖母が亡くなって以来、初めての長電話だった。仕事のこと、葬式のこと、これからのこと。そんな他愛のない話の後で、私は言った。「おばあちゃんの遺品を整理してたら、古い石地蔵が出てきたんだけど」。母は、しばらく沈黙した。長い、重い沈黙だった。

「……それは、処分した?」

「まだ、家にある」

「早く、どこか遠くへ捨てて。もう二度と、家に持ち込まないで」

母の声は、震えていた。なぜか、という私の問いには答えず、母は言った。「あの地蔵は、持ってたら駄目なの。あれはね——」

母は、そこで言葉を切った。電話の向こうで、母が何かを思い出している気配がした。

「あれはね、あんたの曽祖母が、一度捨てたの。三十年前に。川に流したんだって。それでも、地蔵は家に戻ってきた。戻ってきたのを見た翌日には、あんたの曽祖母は、ぽっくり死んだ」

「だから、捨てた地蔵が戻ってきたら、それは——」

「家族の誰かが、死ぬ前触れなんだって」

母は、そう言ったきり、電話を切った。私は、玄関に立っていた。夜だった。月明かりが、家の前の道を照らしていた。そして、私は見た。家の門のところに、あの地蔵が、立っていた。いや、立っていたのではなかった。こちらへ、一歩を踏み出した格好のまま、止まっていた。

こつ、こつ、こつ。足音が、近づいてくる。私は玄関に鍵をかけた。鍵を二重にした。カーテンを閉めて、布団をかぶった。それでも、足音は止まらない。やがて、それは、玄関の、すぐ目の前まで来た。そして——音が、止んだ。

翌朝、私は勇気を振り絞って、玄関を開けた。地蔵は、門のところには無かった。どこにも、無かった。私は、ほっとした。捨てられたと分かって、地蔵は、どこかへ行ったのだ。そう思った。

けれど、夕方になって、私は気づいた。母に電話をして、その日の朝、地蔵が消えていたことを話そうとした時だった。電話に出た母の声が、いつもと違っていた。妙に、落ち着いていて。何かを、悟ったような声で。

「あの地蔵はね、捨てられると、『代わり』を探すんだって」

「代わり?」

「自分を捨てた人じゃなくて、その家で一番、地蔵のことを考えてる人。ずっと、心の中で、地蔵のことを考えてる人を、探すの」

母の言葉に、私は固まっていた。その時、私は、はっと気づいた。この数日、地蔵のことを考えていたのは、私だった。見つけたのも、私。埋めたのも、私。心の中で、ずっと、地蔵のことを考えていたのも——私。

玄関の方を、私は振り返った。鍵をかけたはずの、玄関の、すぐ内側に。畳の上に。あの小さな地蔵が、置かれていた。いつの間にか。誰も開けていない、鍵のかかった玄関の中に。口元を、笑わせたまま。

こつ。

私の背後で、音がした。私は、ゆっくりと、振り返った。

地蔵は、私の目の前にいた。一歩分だけ、近づいて。

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