夜間警備のバイトを始めたのは、就職活動に疲れて、しばらく何も考えたくなかったからだ。父の知り合いの紹介で、町外れにある「みはらし遊園地」の警備を任されることになった。観覧車が名物の、古い遊園地。東京から戻ってきた私には、どこか懐かしくて、どこか寂しい場所に思えた。
みはらし遊園地は、来月いっぱいで閉園することが決まっていた。駅から離れた場所にあるせいで、お客さんは年々減っていたらしい。最後の営業日が近づいて、園内には「さよなら」の横断幕がいくつも張られていた。夜の警備の仕事は、閉園後の見回りと、遊具の電源確認。簡単な仕事のはずだった。
仕事を覚えて三日目の夜、私は初めて、それに気づいた。
零時ちょうど。園内に流れる音楽も、照明も、すべて落としたはずの真夜中。事務所の窓から、ふと外を見ると、観覧車の輪郭が、月明かりの中に浮かんでいた。そして——ゆっくりと、回っていた。
観覧車が、勝手に回っていた。
最初は、風で揺れているのかと思った。けれど違う。大きな車輪が、ゆっくりと、一定の速さで、回転している。ゴンドラが一基ずつ、順番に上へ、上へと上がっていく。誰も乗っていないのに。
私は思わず、事務所の鍵を掴んで外に出た。観覧車の下まで走って、コンセントを確かめた。電源は、しっかりと落ちている。ブレーカーも、制御盤も、すべてオフだ。なのに、車輪は止まらない。黙って、静かに、空を一周していた。
私は旧知の整備士に電話をした。親子二代でこの遊園地に勤める、中村さんという五十歳の男だ。
「中村さん、観覧車が回ってます。電源も落としてるのに」
電話の向こうで、中村さんは少し黙って、それから静かに言った。
「ああ、零時だものな。今日は、回る日か」
「回る日? どういうことですか」
「気にしなくていい。あれは、毎晩回るわけじゃない。回る日は、必ず、理由があるんだ」
そう言って、中村さんは電話を切った。
それから、私は夜の見回りのたびに、観覧車を確認するようになった。すると分かってきた。観覧車が回るのは、決まって誰かが亡くなった日なのだ。この町で葬式がある日。告別式の日の深夜、零時になると、観覧車は必ず、空を一周する。誰も乗っていないのに。
中村さんに尋ねると、彼は煙草に火をつけて、ぽつりと話した。
「三十年前なんだ。この観覧車で、女の子が一人、落ちた。七歳だった。遊具の点検がいい加減な時代でな。ゴンドラの扉の鍵が、壊れてたんだよ」
「……それが、噂の」
「その子の葬式の夜、零時を過ぎて、俺は閉園後の片付けをしてた。ふと観覧車を見上げたら、回ってたんだ。誰も乗ってないのに。それからだ。この町で誰かが死んで、葬式の日が来るたびに、観覧車は夜中に回るようになったのは」
「じゃあ、あれは、その女の子が」
「あの子は、死ぬ間際、ずっと観覧車に乗りたがってたんだそうだ。でも、閉園間際で、乗れなかった。帰る時間だった。それで、あの子は今も、観覧車に乗れないまま、この空の下をぐるぐる回ってる。誰かが死んで、空っぽの遊園地になると、『今なら乗れる』って思うのかもしれない」
私は、言葉を失った。
それから私は、夜の見回りで、この町の訃報を確かめる癖がついた。葬式の日が重なると、夜の園内は、いつもより静かだった。空気の重さが違う。昔の人は、そういうのを「通夜の気配」と呼んだ。観覧車が回る夜は、虫の音さえ、ぴたりと止むのだった。
そして何日かして、また観覧車が回った。町の誰かが亡くなった日だった。私は、暗い園内を歩いて、観覧車の真下まで行った。見上げると、車輪がゆっくりと回っている。ゴンドラの中を、一本一本、確かめた。誰もいない。空っぽだ。
けれど——一番上のゴンドラに、人影があった。
小さな影だった。女の子の、シルエット。ゴンドラの窓に手を当てて、下の、私の方を見ていた。私は一歩、二歩、後ずさりした。影は、ゆっくりと手を振った。まるで、知っている人に会えたことを、喜んでいるように。
私は、その場を離れた。心臓が、早鐘を打っていた。
次の日、中村さんに、見たことを話した。中村さんは、何も驚かなかった。ただ、こう言った。
「俺も、一度だけ見たことがある。二十年前の、あの大きな地震の後だ。町中が喪に服して、誰も遊びに来なかった。その夜、あの子はゴンドラに乗って、ずっと下を見てた。誰かを、探してるみたいに」
「……探してる?」
「ああ。あの子はな、一人で死んだんじゃないんだ。あの日、観覧車の近くで、あの子の妹が迷子になってたんだよ。姉は妹を探して、ゴンドラに閉じ込められてた。で、事故があった。あの子は、最後まで、妹を探してた」
「妹は、どうなったんです?」
「それが、行方のままなんだ。三十年、一度も見つかってない。だから、あの子は今も、あの観覧車から、誰かを探してる。乗れるようになった夜も、探すのをやめないんだ」
閉園の日が、近づいてきた。園内は、最後の週末ということで、久しぶりにたくさんの親子連れで賑わった。観覧車にも、長い列ができていた。私は、開園中の警備も手伝って、園内を歩き回った。ふと、観覧車の列の端に、一人だけ、輪から外れた女の子が立っているのに気がついた。五、六歳くらいだろうか。赤いワンピースを着ていた。誰も、その子に気づいていない。
私は、その子に近づいた。
「お嬢ちゃん、お母さんは?」
女の子は、私を見上げて、笑った。そして、観覧車を指さした。
「あれ、乗りたいの。でも、姉ちゃんがまだ、帰ってこないの」
その瞬間、私は、背筋が凍った。
閉園の日、最後の営業が終わって、園内の電気が消えた。私は、いつものように見回りに出た。零時。観覧車が、回り出した。私は、観覧車の下まで行って、見上げた。一番上のゴンドラに、人影が二つあった。小さな影が、二つ。手を繋いでいた。
車輪は、ゆっくりと、一周した。それから、もう一周。三周目に、私は、二人の影が手を離して、こちらに手を振るのを見た。そして、ゴンドラは、空になった。
あれから、もう閉園から何年も経つ。みはらし遊園地は更地になって、観覧車はどこかへ運ばれていった。けれど、私は今でも、夜、眠れないと、あの町のことを思い出す。
あの夜、最後の観覧車が、あの二人をどこへ送り届けたのかは、分からない。ただ一つだけ、確かなことがある。あの女の子が言った言葉だ。
「あれ、乗りたいの」と、彼女は言った。
三十年前、乗れなかった、その乗り物に。
もう、誰も帰りを待たない、あの観覧車に——。