放課後の点呼

学校の怪談 |2026.08.30

放送室の机に、放課後の当番表が貼ってあった。今週の担当は私だった。午後五時、下校のチャイムが鳴ると、私はマイクのスイッチを入れて、いつもの言葉を読み上げる。「本日の放課後は、午後五時をもって校舎を閉めます。まだ校内に残っている生徒は、速やかに下校してください」

ただの機械的な一文だ。誰も真剣に聞いていない。体育館からはバスケ部のシューズの音が響き、校庭では野球部の掛け声が聞こえてくる。放送委員の仕事は、ほぼ誰にも気づかれない。それでいいと思っていた。

それが変わったのは、その週の木曜日だった。

その日、体育館は貸し出しで使われておらず、校庭では雨上がりの水溜まりが光っていた。部活動は全部中止になり、校内は驚くほど静かだった。私は放送室の椅子に座り、スマホをいじって時間を潰していた。五時になる。チャイムが鳴った。私はマイクのスイッチを入れた。

「本日の放課後は——」

そこまで言って、私は気づいた。スイッチを入れたはずなのに、スピーカーから返ってくるのは、自分の声ではなかった。

「おかえりなさい」

誰かの声が、マイク越しに流れていた。やわらかい、女の人の声だった。私は慌ててスイッチを切ろうとした。けれど、指が、動かなかった。スイッチのランプは、私が押した方向とは逆に、きちんと「ON」の位置で光っていた。

「ただいまより、順番に、お名前を呼びます。呼ばれた方は、その場で、お返事をしてください」

声は、あとを続けた。最初に呼ばれたのは、二年の三組の名前だった。あの、春からずっと休んでいる子だ。風邪をこじらせて転校した、と聞かされていた。次に呼ばれたのは、三年の、先月から登校しなくなった男の子。次は、去年の秋に亡くなった、あの女の子の名前だった。

私は、息を飲んだ。録音されているのだと思った。誰かが、放送室にいたずらをして、古い音声を流しているのだと。私は部屋の隅を確認した。テープレコーダーは動いていない。CDプレイヤーも、スマホも、何もつながっていない。マイクのケーブルは、床に垂れたまま。なのに、スピーカーからは、はっきりと声が聞こえ続けていた。

声は、名前を読み上げていく。どれも、この学校から「いなくなった」生徒の名前だった。その中に、ひとつだけ、聞き覚えのある名前があった。隣の席の、佐伯美咲。いや、違う。そう思った。たまたま、同じ名前だ。佐伯さんは、昨日まで普通に学校に来ていた。部活だって、一緒に帰ったばかりだ。

けれど、声は、私の耳の中で、はっきりとそう言った。「佐伯美咲さん。おかえりなさい。今日も、ちゃんと、帰ってきましたね」

次の瞬間、放送室のドアが、ノックもなしに開いた。

「ねえ、聞こえた?」

立っていたのは、佐伯さん本人だった。制服のまま、鞄を抱えて、ひどく青い顔で。「あの声、私のこと、呼んでなかった?」

「ち、違う。録音だよ、きっと。誰かのいたずら」

私はそう言って、笑おうとした。けれど、佐伯さんは、私の目を見て、言った。「私、返事、しちゃった」

「え?」

「呼ばれたから、思わず、『はい』って。そしたら、あの声が、『よかった』って、言ったの。『今日も、ちゃんと、帰ってこれましたね』って」

佐伯さんは、泣きそうな顔で、私を見た。「それ、何? 何のこと?」

私は、答えられなかった。

その夜、私は佐伯さんの家に電話をかけた。何度も、何度も。けれど、コール音は続くだけで、誰も出なかった。翌朝、通学路で待ち伏せても、彼女は来なかった。教室の、隣の席は、ぽっかりと空いたまま。消しゴムと、半分使ったペンケースが、前日のまま置かれている。私は、その光景を見るたびに、あの放送の声を思い出した。

翌朝、佐伯さんは、学校に来なかった。連絡もない。担任の先生は「家に連絡がつかない」と言って、首を傾げていた。私は、胸の奥が、ずくりと痛んだ。あの放送のせいだ。あの声が、佐伯さんを、どこかへ連れて行ったのだ。そう、確信していた。

放課後、私は放送室へ向かった。誰かが残した、古い記録がないか、探したかった。放送室の棚の奥に、分厚いノートがあった。歴代の放送委員が引き継いできた、連絡ノートだ。私は、何年か前のページをめくった。古い古い、インクの滲んだページに、こう書いてあった。

「——注意。放課後の点呼には、絶対に応えてはならない」

点呼。私は、その言葉に、はっとした。あの声は、そう言っていた。ただいまより、順番に、お名前を呼びます、と。

ノートの続きには、こうあった。「この放送室で、最後の放送をして、帰らなかった生徒がいる。あの子は、今も、校内放送のスイッチの向こうで、『帰れなかった子』を呼び続けている。下校の時間になっても、学校に残っている子を、『おかえりなさい』って、呼んでしまう。呼ばれた子が返事をすると、その子は、スイッチの向こうに、迎えられてしまう」

ノートの最後のページには、その「帰らなかった子」の名が、小さく書き添えてあった。十何年も前の、放送部の女子生徒の名前。文化祭の準備で、誰よりも遅くまで残って、最後の下校放送をひとりで担当したまま、翌朝、校舎から姿を消した子だった。事故でも、事件でもない。ただ、どこにも、いなかった。捜索願は出されたが、見つからなかったという。

——『帰れなかった子』。私は、ようやく、理解した。あの声は、校舎に残っている生徒を、学校から追い出そうとしていたのではなく、呼び寄せていたのだ。自分と同じように、「帰れない」子にしようとしていたのだ。私は、ノートを閉じた。手が、震えていた。

そして、その日、五時。チャイムが鳴る。私の番だった。私は、マイクの前に座り、スイッチに手を置いた。スイッチは、私が触れる前に、ぴくりと動いた。ランプが、光る。スピーカーから、あの声が流れ始めた。

「おかえりなさい」

声は、いつものように、名前を読み上げ始めた。今日の名前は、ひとつだけだった。

「——あなた」

私は、マイクのスイッチを、力いっぱい押し込んだ。OFFにするために。けれど、ランプは、消えなかった。逆に、私は、自分の口が、勝手に動くのを感じた。あの声が、私の喉を借りて、言葉を作っていた。

「はい」

私は、自分の声で、応えてしまった。

「よかった」

あの声が、私の口で、ほっとしたように、言った。「今日も、ちゃんと、帰ってこれましたね」

翌日から、私は、学校に来ていない。いや、来ているのかもしれない。放送室の、スイッチの向こうで。あの声と一緒に、まだ校舎に残っている子を、「おかえりなさい」と呼んで。呼ばれた子が、もし返事をしたら——どうか、返事をしないでほしい。呼ばれても、黙って、帰ってほしい。それが、スイッチの向こうから、私が伝えられる、唯一のことだから。

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