食品工場で働く僕の耳には、いつも機械の音が満ちていた。コンベアの駆動音。粉砕機の唸り。その上を、日本語と、覚束ない外国語が絶え間なく流れていく。
この工場には、東南アジアからの技能実習生が多く、言葉の壁を埋めるために、会社は全従業員に通訳イヤホンを支給していた。名前は「トランスピア」。耳に嵌める小さな機械が、相手の言葉をリアルタイムで翻訳してくれる装置だ。僕は、そのイヤホンで一年以上働いてきた。最初は本当に便利だった。指示も注意も、すべてがクリアに聞こえる。外国人の実習生と、休憩時間に冗談を言い合えるようにもなった。給料は安いが、家は近いし、人間関係に煩わされることもない。僕は、この工場を気に入っていた。
この工場では、一年前、深夜の点検中にベテランの作業員がミキサーに巻き込まれて亡くなったという話があった。慰謝料の支払いをめぐって、会社と遺族のあいだで揉めたと、噂になっていた。僕はそれを聞いたとき、他人事だと思った。事故はいつかどこかで起こる。少なくとも、自分は大丈夫だと。
だが、その朝、すべては変わった。朝の点呼のとき、全員のイヤホンに、一斉にシステム通知が届いた。アップデート。バージョン2.0。添えられた説明書きは、こうだった。「感情翻訳(ベータ版)——相手の言葉の裏にある、本当の気持ちをお届けします」。
最初は、便利な機能だと思った。隣のラインのベトナム人の男が、機械を触りながら「大丈夫です」と言った。僕のイヤホンは、それをこう翻訳した。「実は、このミキサー、調子がおかしいんです。点検してほしい」。僕はすぐにラインを止めて、点検係を呼んだ。案の定、刃の軸が緩んでいた。もう少しで、事故になるところだった。工場長が珍しく僕を褒めた。あの日、僕はこの機能を心からありがたいと思った。
だが、数日後、僕は気づいてしまった。この機能は、本音を晒し続ける危険な機械だ。先輩が、僕に笑顔で言った。「お疲れさま。助かったよ」。イヤホンは、その裏を、平坦な声で流した。「早く辞めてくれないかな。お前に、後を継がせる気は、最初から、ない」。僕は、先輩の顔をじっと見てしまった。冗談かもしれない。いや、冗談であってほしい。けれど、イヤホンの声は、ひどく確信的だった。
工場長の「よくやってるな」も、こう聞こえた。「お前は、半年で使い捨てるつもりの駒だ」。同僚の「一緒に、昼でもどう?」も、「お前の隣は気分が悪い。早くどこかへ行って」と。そうか。みんな、こんなことを思っていたのか。僕は、工場の中の笑顔が、急に信じられなくなった。すべての会話が、化けの皮を剥がされたように、赤裸々に聞こえてしまう。僕は、次第に、誰の顔も見られなくなった。イヤホンを外そうかとも思った。けれど、外すと、今度は外国人の言葉が何も分からなくなる。僕は、恐怖と便利さのあいだで、板挟みになった。
家に帰っても、それは続いた。妻の美咲が、玄関で僕を迎えてくれる。「おかえりなさい。お疲れさま」。イヤホンは、妻の声の裏を、こう翻訳した。「あなた、最近、すごく変よ。何を、そんなに怯えているの」。僕は、慌ててイヤホンを外した。そうだ。家では、外せばいい。僕は、それから毎晩、玄関でイヤホンを外すことにした。けれど、それでも、耳の奥に、あの声が残る。妻の本音が、囁き続ける。「この人、本当に、大丈夫なのかしら」。
僕は、一度だけ、確かめようとしたことがある。夕食の席で、イヤホンをこっそり装着したまま、美咲に何気ない質問をした。「今日、何してたの?」。美咲は、テレビのニュースを見ながら、「別に。買い物と、洗濯くらい」と答えた。イヤホンは、その裏を、こんなふうに翻訳した。「あなたが帰ってくるまで、ずっと、あなたの帰りを待っていた。それだけの一日だった」。僕は、イヤホンを外した。なんで、こんな機能をつけたんだ。本音を知れば知るほど、何も知らないままのほうが幸せだった、と思えるようになっていた。
一週間が過ぎた。僕は、眠れなくなっていた。昼間は工場の本音に晒される。夜は、残像のような声に苛まれる。美咲は、僕を心配して何度も話しかけてくれた。けれど、僕は、彼女の言葉の裏を、無意識に探してしまう。美咲の「ねえ、聞いてる?」が、どうしても「本当に、大丈夫?」に聞こえてしまう。僕は、壊れかけていた。いや、もしかしたら、あの日から、もう壊れていたのかもしれない。
そして、その夜。すべてが、決定的に変わった。
深夜のシフト。設備点検のため、工場中の機械がすべて止まった。耳に残るのは、無機質なアナウンスの残響だけ。数十分の、不自然な静寂。そのとき、僕のイヤホンが、小さく唸った。「感情翻訳、動作を開始します」。周りに、誰もいない。なのに、イヤホンは、何かを翻訳し始めた。それは、僕の耳の奥から、直接、聞こえてくる声だった。僕の口は、動いていない。けれど、確かに、僕の声で、僕の言葉で、こう聞こえた。
「お前は、もう、いらないんだよ」
「この工場には、本物の人間は、俺ひとりしか、いない」
「俺は、一年前の、あのミキサーの事故で、死んだんだ」
僕は、イヤホンを引きちぎった。床に落ちて、転がる。耳元は、静かになった。けれど、声は、消えなかった。今度は、外の声として、聞こえてきた。工場長が、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。口元は、笑っている。その言葉を、僕は、もうイヤホンなしで理解できた。
「バグが見つかってね。修正版のアップデートを、今、配信したところだよ」
工場長は、落ちていたイヤホンを拾い、僕の手に、そっと握らせた。
「君には、まだ、働いてもらわないと、困るからね」
あれから、僕は、また「本物の人間」として、この工場で働いている。ミキサーの音が、今日も、耳の奥で唸っている。美咲は、相変わらず、玄関で僕を迎えてくれる。いや、あれは、本当に美咲だろうか。僕の本音を、誰が、どこで、聞いているのか。もう、確かめる気にはなれない。僕は、イヤホンを外さない。外すと、何かが、また、暴れ出す気がするから。
アップデートの通知が、また届いた。バージョン3.0。「感情翻訳(正式版)——より正確に、より深く、相手の本音をお届けします」。工場長は、点呼のとき、満足そうに言った。「前回はバグがあったが、今回は完璧だ。誰も、もう、隠し事はできない」。それを聞いたとき、僕は、笑うべきなのか、泣くべきなのか、分からなかった。この工場で、本物の人間は、僕ひとり。ならば、この機能が暴く「本音」とは、いったい、誰のものなのか。真夜中の静寂の中で、ミキサーが唸るたび、僕は、耳の奥に、あの声が返ってくるのを待っている。自分が、まだ「本物の人間」であると、確かめるために。