山あいの旧道に、誰もが知っている近道がある。市街から峠の向こうの温泉街まで、二十分近くも短縮できる一本のトンネル。地元では昔から「抜け道」と呼ばれていた。ただの近道ではない。本当の意味で、何かを「抜ける」ための道だと、年寄りたちは笑いながら言うのだ。
「夜中にあれを通ると、必ず何かとすれ違う。だが、決して振り返るな。振り返ったら、向こうがこっちを追ってくる」
そんな昔話を、私はただの言い伝えだと思っていた。配達の仕事で、私は毎晩のようにあのトンネルを通っていた。通勤時間を四十分も短縮できるので、重宝していたのだ。トンネルは短くて真っ直ぐで、壁には苔が生え、照明の半分は点いていなかった。夜中でも、向こうの出口の明かりが小さく見える。一本道。通り抜けるだけなら、なんの変哲もない。
最初に気づいたのは、八月の終わりだった。帰り道、いつもより少し早くトンネルに入った。すると、出口のほうから、一台の車が走ってきた。ライトを点けた、白い軽自動車。すれ違いざま、私はふと助手席の影に目をやった。そこに、女の人が座っていた。白いワンピース。首を傾げて、窓の向こうの私を、じっと見つめていた。――あれは、三年前にこの近くの川で亡くなった、高校の同級生だった。
私は慌ててブレーキを踏んだ。振り返るな、と言われていた。けれど、どうしても目で追ってしまう。バックミラーの中で、白い軽自動車のテールランプが、トンネルの闇に吸い込まれていくように、小さくなっていった。そして、消えた。どこにも、曲がる道なんてないのに。
気のせいだ、と思った。あの子は確かに事故で亡くなったけれど、私はその葬式にも出ていない。知っているのは、クラスにいたことと、名前だけ。そんな子が、私の車の隣に座っているはずがない。疲れているんだ。そう思い込むことにした。けれど、それから毎晩、私はあのトンネルで「何か」とすれ違うようになった。
次の晩は、バスだった。時刻表には存在しない、行き先表示の消えた路線バス。その窓に、私の父が並んで座っていた。五年前に亡くなった父が、生前よく着ていた茶色のジャケットを着て、こちらを見て、ゆっくり手を挙げた。私はハンドルを握り直した。目を逸らした。すれ違いは一瞬だった。バックミラーには、もう何も映っていなかった。
その次の晩は、今度は私の車と、すれ違った。
同じ型の、同じ色の軽ワゴン。ナンバーも、私のと同じだった。あれは、私の車だった。運転席には、私がいた。――いや、私がいた。眠そうな顔でハンドルを握る、確かに「私」が。すれ違いざま、向こうの私は、こちらを一瞬だけ見た。そして、軽く会釈をした。まるで、毎晩すれ違うのが当然であるかのように。
私はトンネルを抜けたところで、車を停めた。心臓がうるさい。震える手で、トンネルの入口のほうを見た。暗い入口の中に、小さなライトの光が、こちらへ向かってくる。あれは、私の車だ。また、すれ違う。私は慌てて車を発進させた。逃げるように、家まで戻った。
その夜、私は眠れなかった。考えた。あのトンネルで、私は「過去」とすれ違っている。亡くなった同級生。亡くなった父。そして、さっきの私は――過去の私? それとも、何かの間違い? 翌朝、私は試しに、日中にそのトンネルを通ってみた。何も起こらなかった。ただの、苔の生えた古いトンネルだった。ならば、夜だけの問題だ。私は、意を決して、その晩もトンネルへ向かった。
夜十一時。トンネルの入口で、私は一度だけ深呼吸をした。旧道のこの区間は街灯がなく、闇に浮かぶトンネルの口は、まるで何かが待ち構えているようだった。私はハイビームを点けて、ゆっくりと入った。天井の照明が、時折パチパチと瞬く。水の滴る音が、タイヤの音に混ざる。そして、中ほどまで来たとき、対向車線のほうに、また光が見えた。
今度は、自転車だった。小さな、子供用の自転車。誰も乗っていないのに、ゆっくりとこちらへ進んでくる。ペダルは回っている。けれど、サドルには誰もいない。私はハンドルを握る手に力を込めた。通り過ぎようとした、その瞬間――自転車が、私の車の真横で、止まった。
音もなく。ブレーキを掛けたわけでもないのに。
私は、見てしまった。振り返ってはいけない、と知っていたのに。サイドミラーに映った自転車の、その後ろに、小さな影が立っていた。子供の影。それは、私が子供の頃、ここで事故で亡くなった、隣の家の男の子だった。五歳違いの、遊び友達だった。――お前、まだいたのか。私はそう言いたかった。けれど、声は出なかった。
あの男の子が亡くなったのは、四十年近く前だ。場所も、この旧道のあたりだと聞いていた。私は、あの日、雨の中で遊んでいて、もう少しで一緒に轢かれるところだった。事故の瞬間、男の子は私を押しのけて、代わりに飛び出したのだ。だから、私は今も生きている。
――そうか。このトンネルは、時間が逆流する道なんだ。亡くなった人たちは、あの日のまま、ずっとこの道を引き返している。あの軽自動車の同級生も、父も、男の子も。みんな、あの日を「抜けて」、こっちの世界には戻ってこられなかった人たちだ。だから、この道は「抜け道」と呼ばれているんだ。
私は、何が怖いのか、もう分からなくなっていた。あの日の男の子を、私はもう一度見たかった。もう一度、謝りたかった。私は車を停め、ドアを開けた。トンネルの冷たい空気が、体に触れた。サイドミラーの中の男の子は、まだ、そこに立っていた。私を見て、首を傾げている。
「……ごめん」
私の声は、トンネルの中で響いた。男の子は、ゆっくりと、手を挙げた。さっきの父と同じように。そして、唇を動かした。何か、言っている。声は聞こえない。けれど、その口の形は、私にははっきりと読めた。――「振り返るな」。
私が振り返った、その瞬間だった。
トンネルの闇の中に、無数のライトが灯った。軽自動車。バス。自転車。そして、私の軽ワゴン。それらが、すべて、こちらへ向かって、音もなく近づいてくる。四十年分の「すれ違い」が、全部、今この瞬間に、この一本のトンネルの中に集まってきていた。私は振り返ったまま、動けなかった。
先頭を走っていたのは、私の軽ワゴンだった。運転席の「私」が、窓を開けて、叫んでいた。声は聞こえない。けれど、口の形で分かった。「今すぐ、トンネルを抜けろ」。私は反射的に車に飛び乗り、アクセルを踏んだ。出口の明かりが、どんどん近づく。後ろから、何台ものライトが迫ってくる。私は、必死で出口を目指した。
タイヤが、トンネルの外のアスファルトを蹴った。その瞬間、後ろの光は、すべて消えた。振り返ると、そこにはただの、苔の生えた古いトンネルの入口があるだけだった。闇の奥に、小さな光が一つ。こちらを、見つめている。
あれから、私は、もうあのトンネルを通っていない。遠回りでも、国道を四十分かけて帰ることにした。なぜなら、あのとき、トンネルを抜ける直前に、出口のそばに立っている人を見てしまったからだ。作業着の、初老の男。それが誰かは、分かっていた。あの日のまま、四十年、この抜け道の入口で待っている、隣の家の男の子の、父親だった。彼は、私を見つめて、何か、言った。口の形は、こうだった。
――「いつか、お前も来る」。
抜け道は、いつか、私が「抜ける」日を、まだ待っている。