体育館のピアノ
学校の怪談うちの高校の体育館には、ステージの隅に一台の古いアップライトピアノが置いてある。入学式や卒業式の伴奏に使われるはずのものだが、私が知る限り、そのピアノに触れる者はいなかった。蓋には分厚い埃が積もり、鍵盤の上には「使用禁止」の紙が貼られたまま、何年も動かされていなかった。
理由は、先輩たちが口を揃えて言う「体育館のピアノ」の噂だ。三年ほど前、この学校に一人の女子生徒がいた。名前は野口みちる。ピアノが上手いことで有名で、いつも放課後になると体育館のピアノで練習していたという。彼女は文化祭で弾くはずだった曲を、当日までにどうしても仕上げたくて、夏休みの間中、誰もいない体育館で一人で練習していた。ところが夏休みの終わり、彼女は忽然と姿を消した。家出でも行方不明でもない。学校にも家にも連絡はなく、警察が捜索したが、結局何も見つからなかった。
それからというもの、体育館のピアノは時々、勝手に鳴るようになった。放課後、部活動が終わって人気がなくなった頃。ぽつん、ぽつんと、誰かが鍵盤を叩くような音が聞こえてくる。最初は不協和音の羅列なのに、聴いているうちにそれが一つの曲になっていることに気づく。みちるが最後まで仕上げられなかった曲だという。そして、その音を聴いてしまった者は——必ず、三日以内に学校へ来なくなる。転校でもなく、病気でもなく、ただ、ぱったりと姿を見せなくなるのだという。
私はずっと、それは作り話だと思っていた。噂というものは後から尾ひれが付くもので、本当はただの不良グループの隠れ蓑か、誰かの悪ふざけに決まっている。そう信じていた。九月の二学期が始まって一週間が過ぎた木曜日のこと。私はバスケ部の練習を終え、体育館の片付けを一人で引き受けていた。窓の外はもう暗く、体育館には私一人だけ。備品庫にボールをしまい、鍵をかけようとしたその時だった。
ぽつん。
音がした。ステージの方向から。私は思わず動きを止めた。体育館には確かに私以外誰もいない。見回しても、影ひとつない。それなのに、また音がした。ぽつん、ぽつん、ぽつん。間を置いて、少しずつ音が増えていく。低い音から始まり、高い音へ。やがてそれは、ゆっくりとしたメロディになっていった。
私は体が固まるのを感じた。弾いているのは、確かにあのピアノだ。誰も触れていない、埃を被ったアップライトピアノが、独りでに旋律を紡いでいる。その曲は、どこかで聴いたことがあるような気がした。卒業式で歌う校歌でもなく、流行りの歌でもない。静かで、寂しくて、それでいてどこか優しい——未完の、途中で終わってしまった曲。音はステージの上、ピアノの周囲から聞こえてくるのに、そこには誰の姿もない。
私は怖くなって、その場から逃げ出そうとした。だが足が動かなかった。なぜだろう、あの曲を最後まで聴きたい、と思ってしまったのだ。途中で終わってしまった曲が、どう続くのかを知りたくて仕方がなかった。三歩、ステージの方へ近づいていた。音はまだ続いている。ここまで来ると、旋律はもうはっきりと聞こえる。左手の伴奏が加わり、曲は少しずつ厚みを増していく。あと少しで、何かが完結する。
——その時だった。背後で、体育館の扉が開く音がした。
「おい、何してるんだ」
振り返ると、そこにいたのは美術部の先輩だった。佐伯先輩。彼女は私の様子を見て、すぐに顔色を変えた。
「……聴こえたのか」
「え」
「その曲。聴こえたんだな」
先輩はステージのピアノを睨むように見つめていた。ピアノの音は、いつの間にか止んでいた。体育館には、電気の唸りと、私たち二人の呼吸の音だけが残っていた。
「三年前、みちる先輩が弾いてた曲だよ」と佐伯先輩は言った。「あの人、私の姉なんだ」
私は息を飲んだ。佐伯先輩は続ける。
「姉は文化祭のピアノ発表をすごく楽しみにしてた。練習も、いつもあの体育館でしてた。でも——本番の三日前に、あの曲を途中で弾けなくなったんだ。どうしても続きが出てこないって、家でずっと悩んでた。それで、最後の夜もあのピアノに向かってた」
「じゃあ、その曲の続きは」
「誰も知らない。姉が消えたから」
佐伯先輩は、ステージのピアノをじっと見つめたまま言った。「あのピアノが鳴るのは、弾いてほしいんだと思う。続きを。姉ができなかった最後の小節を、誰かに弾いてほしくて」
「……でも、聴いたら学校に来られなくなるって」
「それは、あの曲に引き込まれた者が、続きを探してあのピアノに触れてしまうからだよ。触れたら最後、姉のいた場所——あの曲の中に、連れて行かれる」
先輩は言い終えると、何も言わずに体育館を出て行った。私は一人、ステージの前に立ち尽くしていた。あの曲の続きが、頭の中で鳴り続けている。低い音と高い音が重なり合い、あと一つ、和音が足りれば終わる。その最後の和音が、どうしても分からない。
次の日の朝。私は学校へ行った。行けた。しかしその日の放課後、バスケ部のマネージャーがぱったりと来なくなった。あの日、私が体育館で曲を聴く前に、彼女も体育館の前を通りかかって、何かを聴いていたらしい。三日後、先生たちが彼女の家を訪ねたが、家には誰もいなかった。机の上には、開かれた楽譜が置いてあった。彼女はピアノを弾けないはずなのに、楽譜には誰かの手書きで、五線が書き足されていた。曲の続きを、必死で探し当てようとした跡だった。
あれから一週間。私は毎日、体育館の前を通るたびに、あの曲が頭の中で鳴る。低い音。高い音。そして、あと一つで終わるはずの、最後の和音。授業中も、部活中も、その音は私の耳の奥で鳴り続けていて、気がつくと無意識に机を指で叩いてリズムを取っている自分がいる。友人に「その曲、何?」と聞かれても、答えられなかった。答えたら、あの夜のことを言葉にしてしまいそうで、怖かった。
金曜日の放課後、私は音楽準備室にいた。あの曲の正体がどうしても気になって、楽譜を探しに行ったのだ。棚を漁っていると、古いファイルの中から一枚の楽譜が出てきた。表紙には「未完成ソナタ 第一楽章」と書かれ、隅には小さく「野口みちる」の名前があった。ページをめくると、途中まで丁寧に書き込まれた五線譜。しかし最後のページだけ、音符が途切れていた。そこにはただ、鉛筆でこう書き殴られていた。「ここがわからない。ここがわからない。ここがわからない」——同じ言葉が、七回。七回も、彼女は同じ場所で立ち止まっていたのだ。
音楽の先生に聞いてみると、先生は困ったように笑った。「野口さん、文化祭のピアノ発表でオリジナル曲を弾くって張り切ってたんです。でも最後の一小節だけ、どうしても納得いかなくてね。あの子が消えたあとも、楽譜はずっとあのままですよ。続きを書ける人がいないんです」——続きを書ける人がいない。あの曲は、この学校の中でずっと、誰かが続きを書いてくれるのを待っている。そして、その曲に触れた者は、みんな彼女のいた場所へ連れて行かれる。
佐伯先輩の姉も、マネージャーも、みんなあの曲の続きを探して、あのピアノに吸い込まれていった。それでも私は、どうしても最後の音が知りたい。もしも今夜、あのピアノの蓋を開けてしまったら——私も、あの曲の中で誰かを待つ側になるのだろうか。
ぽつん。体育館のピアノが、また鳴り出した。
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