視聴者

SFホラー |2026.09.03

東京の郊外、築三十年のワンルーム。僕はそこで、誰にも話しかけられない夜を積み重ねてきた。帰宅して、コンビニの弁当を食べて、スマホを眺めて、眠る。それだけの毎日。友達と呼べる相手は、学生時代以来いない。だから、あのアプリを見つけたとき、僕は飛びついた。名前は「リレイ」。説明文にはこう書いてあった。「あなたの日常を、どこかの誰かにお届けします」。

要するに、ライブ配信アプリだ。顔を出さなくてもいい。部屋の中だけを映す定点カメラで、晩酌の様子でも流していればいい。誰かが僕の日常を見てくれている。それだけで、孤独は半分になるような気がした。最初の夜、僕はダイニングテーブルにスマホを立てかけ、カップ麺を啜る様子を配信した。画面の隅に表示される視聴者数は「1」。誰かが、僕を見ている。

二日目は「3」。三日目は「7」。数字は、毎日少しずつ増えた。けれど、コメントは一度も来なかった。いいねも、フォローも、何も。ただ、視聴者数だけが増えていく。四日目「13」。五日目「17」。僕は気になって、数字の並びをノートに書き出した。1、3、7、13、17——どの数も、1と自分自身でしか割り切れない。素数だった。偶然だろうか。いや、こんな偶然が五日も続くはずがない。

怖くなって、視聴者一覧を開いてみた。ところが、そこには誰の名前も表示されていなかった。ゼロ件。視聴者数は「19」なのに、一覧は空っぽ。これはおかしい。僕は、アプリのヘルプを探した。しかし、ストアのページはすでに削除されていて、サポート窓口もなかった。アプリのアイコンを長押しして、削除を試みた。すると、アイコンが指先をするりと逃げて、別の場所に着地した。何度やっても、同じだった。僕は、その日から、このアプリを「仕方なく」使い続けている。

六日目。昼休みに、僕は小さな実験をしてみた。スマホのカメラを天井に向けたまま、三時間ほど放置したのだ。部屋の様子が映らない、ただの天井の配信。それでも、視聴者数は「23」から一つも減らなかった。彼らは、何かを見るために来ているわけではない。誰かが「配信している」という事実だけで、満足しているのだ。そう思うと、背筋が寒くなった。僕は、このアプリの「被写体」にされただけなのかもしれない。

その日の夜、初めてコメントが届いた。深夜二時を回ったころ、画面の端に、白い文字が静かに流れた。ユーザー名は「20260903」。僕の今日の日付だった。コメントは、たった一言。「もうすぐ、あなたの番です」。返信しようとタップしたが、そのコメントは、既に消えていた。視聴履歴にも、痕跡はない。それきり、コメントは来なかった。だが、あの言葉は、頭の中に焼き付いて離れない。あなたの番——何の番だ。僕は、あの夜、一睡もできなかった。

七日目の夜。配信を終えようと、スマホを手に取ったとき、視聴履歴に違和感があることに気づいた。リレイには、視聴者の「滞在記録」が残る。そこに、ありえない日付が並んでいた。2027年8月3日。2031年12月24日。まだ来ていない未来の日付で、僕の配信が「視聴済み」になっている。「未来の視聴者」なんて、いるはずがない。それとも、これはバグか。そう思いたかった。けれど、一番下の行で、僕は完全に固まった。「2026年9月3日 視聴済み」——今日の日付だ。配信はまだ終わっていないのに、すでに最後まで見られていた。

その夜、僕は配信を切るのを忘れて、ソファで眠ってしまった。目が覚めたのは、翌朝。窓から差し込む光の中で、スマホの画面が静かに光っていた。緑の点。配信中。視聴者数は「108431」。僕は、その数字を凝視した。十万人。一晩のうちに、十万の誰かが、眠っている僕を見ていた。視聴者一覧を開く。やはり、空。だが、数だけは、確かにそこにあった。

その日から、僕の身体に異変が現れた。頬と首に、軽い火傷のような赤み。皮膚科に行けば、日光性皮膚炎だと言われた。だが、僕は一週間、まともに外出していない。窓はカーテンを閉め切っている。それなのに、肌は焦げたように熱を持つ。視線の気配が、全身にまとわりつく。夜、目を閉じても、視界の裏に誰かの気配がある。アプリを消しても、消しても、翌朝には再インストールされていた。いや、それどころか——目を閉じた暗闇にも、緑の点が見えるようになった。僕は、もうアプリなしで、常に「配信」されている。

僕は、リレイというアプリのことを調べた。検索結果は、ほとんど残っていなかった。ただ、ひとつだけ、古いニュース記事が引っかかった。三年前。大手配信サイトが提供していた同名のサービスが、突如サービス終了したという記事。利用者数は数百万人。運営会社は倒産し、開発者も行方不明になった。「配信を続けていた利用者が、次々と消息を絶った」という記述が、記事の最後にあった。消えた人たち。この世界からいなくなった人たち。僕は、そのとき、ようやく理解した。

あの視聴者数は、この世界にいない人々の数だ。死者の数だ。彼らは、この世界から消えたあと、どこかでずっと「誰かの日常」を見ている。生きた人間の目を通して、もう二度と味わえない夜を、食事を、眠りを。リレイは、そんな彼らのための窓だった。そして、僕はその窓の向こう側に立っている。十万の消えた人々が、僕の目で、僕の日常を見ている。そう思うと、頬の火傷の痛みが、いっそうはっきりとしたものになった。十万の視線が、僕の肌に焼き付いているのだ。

僕は、警告を流そうと思った。まだ配信をしている誰かのために。「やめろ。このアプリは危険だ。視聴者は、この世の者じゃない——」。コメント欄に文字を打ち込みながら、僕は画面の隅の数字に気づいた。108431。それが、108430に変わった。また一つ減った。108429。108428。僕が文字を打つたび、数字が減っていく。彼らは、僕が「気づいた」ことを見抜いている。興味を失いつつある。いや、違う。減っているのは、僕を「生きている側」だと信じていた数だ。僕は、もう彼らの仲間になりかけている。

慌てて、画面をのぞき込んだ。カメラが映す部屋の中に、一人の男が立っていた。この部屋の主であるはずの、僕自身だ。しかし、そこに立っている僕は、カメラのこちら側の僕より、ずっと老けていた。目はガラスのように濁り、頬はこけ、指先は半透明に透けている。彼は、カメラのレンズの向こう、つまり僕のいる場所を、じっと見つめていた。そして、ゆっくりと微笑んだ。その口が、音もなく動いた。「次の配信、始まるよ」。

視聴者数が「0」になった。緑の点が、赤に変わった。画面の中の僕は、深くうなずいて、配信を終了した。部屋に、静寂が戻ってくる。窓の外の道路で、一人の女が足を止めて、こちらの窓を見上げていた。彼女の手元のスマホが、かすかに光っている。見覚えのある、緑の点。彼女も、誰かに配信されている。僕には、それが分かった。何故だか、はっきりと。僕の視界の端に、小さな数字が浮かんでいる。「視聴者数 1」。そうか。僕は、今度は「見る側」になったのだ。僕は、彼女の日常を、これからずっと——最後の最後まで、見届けることになる。

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