「私」が眠っているあいだ、私はどこへ行くのか——そんなことを考え始めたのは、一週間前からだ。きっかけは、たまたまだった。夜中に目が覚めて、スマホのライトで時間を確かめようとしたら、画面に緑色の「録音中」の表示が浮かんでいた。私は、寝る前にボイスメモを起動したまま眠ってしまう癖がある。朝の電車で聞くための、仕事のメモ。だが、あの夜の録音は、仕事とは何の関係もなかった。
再生ボタンを押すと、まず自分の寝息が流れた。規則正しい、穏やかな呼吸。私は満足して止めようとした。そのとき、だった。寝息の合間に、小さな声が混じっていた。「——うん、わかってる」。私の声だった。だが、私はその言葉を、口にしたことがない。寝言だ、と思った。寝ているあいだに、自分でも気づかずにしゃべる。そんなことは、ある。問題は、その次だった。翌朝、また録音が残っていた。今度は二言。「——まだ、起きなくていい」。そして三日目。「——もうすぐ、交代の時間」。どれも、私の声で。どれも、私が知らない言葉だった。
私は、自分の声を聞き間違えるはずがない。録音の声は、確かに私だった。けれど、その話し方だけは、他人だった。私の話し方は、もっと早口で、語尾が曖昧になる。録音の中の声は、ゆっくりと、丁寧に、まるで誰かを安心させるように言葉を選んでいた。私は母に電話して、子どもの頃から寝言を言うか聞いてみた。「あんたは寝相が悪いだけで、寝言は言わなかったよ」と母は笑った。じゃあ、あれは何だ。私は録音データを消した。そして、二度と録音しないと決めた。
だが、三日目の夜、私は目が覚めた。時計は午前二時。枕元のスマホが、かすかに熱を持っていた。画面を開くと、また「録音中」だった。私は、この機能をオフにしたはずだ。なのに、スマホは私の眠りを録り続けていた。指先が震えた。けれど、私は、あの声をもう一度聞きたくてたまらなかった。再生する。寝息。それから——「——ようやく、聞こえるんだね」。はっきりと、私に話しかけるように。私は、スマホを投げ出した。布団に顔を埋めて、心臓の音を数えた。その夜、私は朝まで、一睡もできなかった。
明くる日、私は録音データを解析してくれるアプリを探した。音声認識で、何語か判定できるもの。結果は、すぐに返ってきた。「不明な言語。既存の言語モデルに一致しません」。私は、大学の言語学教室にメールを送った。返事をくれたのは、助手の若い女性だった。彼女は、データを聞くなり、すぐに声のトーンを変えた。「これ、どこの方言ですか。母音の体系が、日本のどの方言とも合いません」。私は、正直に話した。寝ているあいだに録音された声だと。彼女は、しばらく沈黙して、ぽつりと言った。「……その島、知ってます。私のゼミの教授が、ずっと研究してた場所です。六十年前に最後の話者が亡くなった、『甕島』の方言です」。甕島。私は、その名前を検索した。出てきたのは、廃村の写真と、伝承の一文だけだった。「この島では、眠ることを『小さく死ぬこと』と呼んだ」。
その一文を読んだ夜から、私は眠るのが怖くなった。布団に入るのが怖い。目を閉じると、暗闇の向こうで、誰かが私の声で何かを話している気がする。耳を澄ませても、何も聞こえない。けれど、確かに「そこ」にいる。私のすぐ内側に。日中も落ち着かなかった。電車の中で、ふと無意識に口を衝いて出た言葉が、あの録音と同じ響きを持つことに気づいて、冷や汗が出る。コンビニの店員に「ありがとう」と言おうとして、別の音が唇に乗りかける。私は慌てて飲み込み、会釈だけして店を出た。声は、少しずつ、私の昼にまで浸み出してきていた。
私は医者に行った。睡眠外来で、終夜睡眠ポリグラフ検査を受けた。モニターを装着して、病院の個室で一晩を過ごす検査。看護師さんが笑いながら言った。「寝言を録音しておきますね」。私は苦笑いするのが精一杯だった。検査の前、母に電話した。心配かけたくなかったが、聞いておきたいことがあった。「ねえ、おばあちゃんって、どこで生まれた人だっけ」。母は「あんた、急にどうしたの」と笑いながら、「確か、太平洋側の……島だって言ってたわね。名前は、忘れちゃったけど」と答えた。私は、スマホを握る手に力を込めた。まさか。そんな偶然があるはずがない。
実家の押し入れから、祖母の遺品の段ボールを探し出したのは、検査の前日だった。母は「何を急に」と不思議がったが、私は無理を言って、古い写真を借りた。白黒の集合写真。島の神社の前で、大正生まれの娘たちが並んでいる。その中に、祖母によく似た少女がいた。祖母の、さらに母、つまり私の曽祖母だ。写真の裏には、薄れた筆跡で「甕島、盆の送り火」と書いてあった。祖母は、私に話してくれたことがある。「私はね、眠るのが怖い子どもだったの。夜になると、誰かが私の口を借りてしゃべる気がして」。私はあのとき、ただの昔話だと思った。寝ぼけた祖母の思い込みだと。けれど、違った。あれは、警告だったのかもしれない。
検査の夜。私は、あの声を聞いた。夢と現実の境目で、はっきりと。「——あなた、ずいぶん長く眠ってたね」。やわらかい声。私の声。けれど、その「私」は、私ではない。私は、夢の中で口を開こうとした。でも、声が出ない。代わりに、唇が勝手に動く。話しているのは、私じゃない。私の身体が、私の声で、私の知らない言葉を紡いでいる。暗闇の向こうに、白い服を着た誰かが立っていた。それが、私の顔をしていた。いや、違う。あれは、写真の中の少女の顔に、少しずつ近づいていく。甕島の、最後の言葉を話す、誰か。私の口を借りて、帰りたがっている。
目が覚めたのは、朝だった。検査室のベッド。枕元のスマホには、また録音が残っていた。今度は、長い。四十分。私は、再生ボタンに指をかけた。けれど、押せなかった。代わりに、私は検査結果の用紙を眺めた。「特記すべき異常なし。深睡眠は充分に取れています」。充分に眠れている。つまり、私は毎晩、たっぷりと「小さく死んでいる」。目を閉じるたび、私は自分の中で、誰かが目を覚ますのを待っている。祖母は、生涯、この声と暮らした。そして、最後の晩、母にこう言い残したという。「明日の朝、起こさないで。今度は、私が話す番だから」。録音は、今夜も増えていく。いつか、私が目を覚ましたとき、そこにいるのは——果たして、どちらの私だろう。