麦わら帽子

夏の怪談 |2026.09.05

父が死んだのは、春のことだった。倒れたのは、いつも行く海辺の堤防の上。釣りをしていたわけではない。ただ、海を眺めていただけだと、隣で釣りをしていた人が話してくれた。父は、ここ数年、暇さえあれば海を見に行っていた。遺品整理は、もうほとんど終わっていた。衣類も、本も、道具も。けれど、押入れの一番奥に、ひとつだけ、開けられていない段ボールが残っていた。その中から出てきたのは、麦わら帽子だった。新品で、誰も被った形跡がない。水色のリボン。裏側には、小さな字で、名前が書いてあった。「ゆい」。私は、その場にしゃがみ込んだ。手が、震えていた。

ゆい。その名前を、私は知っている。四十年前の夏の、たった一瞬の記憶の中にしか、いない少女の名前だ。あの日、私は八歳だった。海水浴の帰り際、足を滑らせて、沖へ流された。波に呑まれて、意識を失った。目が覚めたとき、浜辺にいた。誰が運んだのかも、分からない。砂の熱さだけが、やけに鮮明だった。隣に、同い年くらいの女の子が立っていた。麦わら帽子を被って。女の子は、帽子を脱ぐと、私の頭に被せた。「これ、返すね。やっと、帰れる」。そう言って、振り返らずに、海へ入っていった。大人たちは、私が自分で岸まで泳ぎ着いたのだと思っていた。けれど、私は知っている。あの日、あの女の子が、私の代わりに、海へ行った。水色のリボンの帽子は、あれ以来、一度も見つからなかった。

私の町には、言い伝えがある。夏の終わりになると、浜辺に帽子が流れ着くことがある。拾ってはいけない。それは「帽子の子」が、身代わりを探して、返しに来た印だ。帽子を受け取った家からは、次の夏、必ず一人が海に呼ばれる。だから、流れ着いた帽子は、燃やすか、海に流して返す。そうしなければ、帽子の子は、帰る場所を失ったまま、夏の終わりを彷徨い続ける。子どもの頃、祖母に何度も言われた。「浜辺で帽子を見たら、絶対に触っちゃだめよ。あれは、あの子の、身体みたいなものだから」。

母に電話をした。父の遺品から帽子が出てきた、とは言わずに、まず、ゆいのことを聞いた。「ゆいちゃん、知ってる?」。母は、しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。「知ってるよ。あんたを、海から助けてくれた子だろ」。私は、息を飲んだ。母は、知っていたのだ。四十年前の、あの夏のことを。「父ちゃん、毎年、夏の終わりに浜辺へ行ってたよ。帽子を一着、海に流してね。二十年、一度も欠かさず」。受話器を握る手に、力が入った。「ゆいちゃんに、流してたんだよ。あんたの身代わりになるって」。帽子の子は、流された帽子を被ると、その年は、誰も連れて行かない。父は、毎年、ゆいに帽子を送り続けることで、私を海から守っていた。二十回分の、夏。私は、その間ずっと、何も知らずに、東京で普通に暮らしてきた。

押入れの段ボールを、もう一度、隅々まで調べた。底の方に、ノートが一冊入っていた。表紙には「ゆいちゃんへ」と書いてある。中を開くと、父の字で、毎年、同じ文章が書かれていた。「ゆいちゃん。今年も、みずきを守ってくれてありがとう。来年も、必ず帽子を流すから。それまで、海で待っていてくれ」。一年に一度、必ず。最後のページは、去年の夏で終わっていた。そして、ノートの横に、もう一つ、小さな段ボールがあった。「今年の分」と、父の字で書いてある。中には、新品の麦わら帽子が入っていた。水色のリボンの。父は、今年の分も、もう用意していた。けれど、春に倒れて、流せずに終わった。だから、ゆいは、待ちきれなくなったのだろうか。それとも——返しに、来たのだろうか。

その夜、私は目が覚めた。時計は、午前二時。部屋の窓から、海が見える。この家は、祖父の代からの海の家で、浜辺まで、歩いて三十秒。窓の外に、誰かが立っていた。小さな影。麦わら帽子を被って。こちらを向いて、じっと。手に、もう一つの帽子を持っていた。水色のリボンの、古い帽子。四十年前、海でなくしたはずの、あの帽子。影は、ゆっくりと、手を上げた。返しに来た、と。私は、カーテンを閉めた。けれど、その姿は、瞼の裏に焼き付いて、朝まで、消えなかった。

朝、庭に足跡が残っていた。小さな、子どもの足跡。裸足で、砂のついた足跡。海の方から、うちの庭まで続いて、私の部屋の窓の下で、ぴたりと消えていた。父の遺した新しい帽子は、どこにもなかった。代わりに、庭の砂の上に、水色のリボンの古い帽子が、置かれていた。四十年前の、私の帽子。拾ってはいけない。受け取ってはいけない。受け取れば、次の夏、私は海に呼ばれる。父が二十年かけて繋いできた、身代わりの鎖が、そこで切れてしまう。私は、帽子を置いたまま、一日中、家の中にいた。カーテンを閉めて。海が見えないように。

盆も明けた、八月三十一日。夏の、本当に最後の日。夕方、私は、父の遺した新しい帽子を持って、浜辺へ行った。波打ち際に、女の子が立っていた。八歳くらい。白いワンピースに、麦わら帽子。私の、古い帽子を、両手で抱えて。「——返しに来たよ」。女の子は、笑った。四十年前と、同じ顔で。ゆい。「これ、みずきちゃんの。ずっと、預かってた」。私は、差し出された帽子に、手を伸ばしかけて、止めた。いや、違う。私は、古い帽子には触れず、自分の手に持った新しい帽子を、ゆいに差し出した。「返さなくていい。これは、父さんが、あなたに。今年の分」。

ゆいは、新しい帽子を、じっと見つめた。それから、ゆっくりと、受け取った。被ってみて、つばを、ちょっとだけ曲げた。「……ありがとう」。声が、震えていた。「ずっと、待ってた。返さなくていいんだって、言ってもらえるのを」。私は、首を振った。「あなたは、何も返さなくていい。あの夏、あなたが私を助けてくれた。それだけで、私は、生きてる」。ゆいは、もう一度、笑った。今度は、涙を浮かべて。「みずきちゃん、またね。来年は、一緒に遊ぼうね」。そう言って、波の中へ歩いていく。新しい帽子を、被ったまま。振り返って、手を振った。私は、手を振り返した。海は、穏やかだった。

翌朝、浜辺には、何も流れ着いていなかった。古い帽子も、新しい帽子も。庭の足跡も、消えていた。私は、父のノートの、最後のページに、自分の字で書き足した。「ゆいちゃん。今年も、ありがとう。来年も、必ず、帽子を流すから。それまで、海で待っていて」。ノートを閉じて、私は、浜辺へ出た。海に向かって、手を振った。来年も、そのまた来年も、この町に帰ってくる。父の代わりに、帽子を流すために。帽子は、返さなくていい。あの子は、きっと、帰る場所が、ほしかっただけなのだから。

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