満タンで

実話系怪談 |2026.09.06

大学を卒業するまでの二年間、私は山あいの町のガソリンスタンドで、深夜帯のアルバイトをしていた。国道沿いの、二十四時間営業の小さな店。深夜三時を過ぎると、車はまったく通らなくなる。あの時間に働いていたのは、地元の大学生か、私みたいなよそ者の学生ばかりだった。親方は六十三歳。昼間は息子夫婦が切り盛りして、夜は親方がひとりで番をしていた。私が入ったのは、親方が腰を悪くして、夜の番を手伝う者が足りなくなったからだ。給与は安かったが、授業のない夜に眠れずにいる私には、ちょうどいい仕事だった。

初日の夜、親方は給油の手順を一通り教えたあと、こう言った。「二時になったら、白いクラウンが来る。俺がここで働き始めてから十年、毎晩だ。店のことは何もするな。話しかけるな。給油だけして、帰すんだ」。私は笑って、「よほどの常連さんなんですね」と聞いた。親方は答えなかった。黙って、カウンターのコーヒーを啜った。湯気の向こうで、親方の顔が、ひどく疲れて見えたのは、気のせいではなかったと思う。

その夜、二時ちょうど、国道の方からヘッドライトが近づいてきて、白いクラウンが店の敷地に入ってきた。エンジンの音が、静かだった。あの年代の車とは思えないほど、滑らかな音。窓が開く。中は暗くて、運転している人の顔は見えなかった。女の人の声で、「満タンで」。私は給油を始めた。キャップを開けて、ノズルを差し込む。そのとき、ふと思った。車が軽い。タンクは、ほとんど空のようだった。

メーターは、あっという間に回った。四千八百円ちょうどで、ノズルが止まった。運転席の窓から、五千円札が差し出された。しわくちゃの、やけに古い札だった。「お釣りを……」と言いかけたときには、窓はもう閉まっていた。クラウンは、ゆっくりと敷地を出て、峠の方へ走っていった。私は、その真っ白な後ろ姿を、しばらくのあいだ見送った。お釣りの二百円は、結局、返せなかった。

数日後、同じ時間に、またクラウンが来た。今度は私は、給油のあいだに、うっかり車内を覗いてしまった。後部座席に、スーパーのビニール袋が置いてあった。中に、大根と豆腐が入っているのが見えた。袋には「ふじもとストア」と印刷されていた。帰り際、親方に、何気なくその話をした。親方は、カウンターのコーヒーを一口飲んで、ぽつりと言った。「ふじもとストアは、もう十年以上前に閉店したよ。あの町の、誰もが知ってる、小さな商店だった」。

「あの人、毎晩、峠の向こうへ帰るんですか」。ある夜、私は親方に聞いた。親方は、コーヒーの湯気の向こうで、長いこと黙っていた。それから、ぽつりと言った。「あの人の家は、この先の集落だ。だが、あの人は十年、一度も家に着いていない」。十年前の冬、あの女の人は、この店で給油して、峠道を登っていった。凍結したカーブで、車ごと崖から落ちた。発見は翌朝。もう、どうすることもできない状態だった。だが、その夜から、二時になると、白いクラウンがこの店に来るようになった。十年間、毎晩、休みなく。

親方は続けた。「あの人は、あの晩の続きをやってるんだ。給油して、峠を登って、あのカーブで終わる。それを、毎晩繰り返してる。あの人の時間は、あの晩で止まったままだからな。この店が、あの人の最後の、人間の時間なんだよ」。あの晩、親方は給油を済ませて、「夜道、気をつけてな」と声をかけた。それが、あの人にとって、この世で最後に交わした言葉だった。「だから、あの人は、毎晩、その言葉をもらいに来るんだろうな」。私は、カウンターの端を握りしめた。手のひらが、冷たく汗ばんでいた。

次の休みの日、私は町の図書館へ行って、十年前の地方紙をマイクロフィルムで繰った。二月十四日、雪の朝の記事だった。「峠道で単独事故、女性死亡」。白いクラウンは、凍結したカーブでガードレールを突き破り、谷底に転落していた。運転していたのは、この先の集落に住む五十八歳の女性。前日の夕方、町の商店で買い物をした帰り道だったという。遺体とともに見つかった買い物袋の中には、大根と豆腐が入っていた。店の者によると、あの人はいつも「明日、息子が帰ってくるから」と、大根と豆腐を買うのが楽しみだったらしい。記事の最後に、息子の言葉が載っていた。「母は、あの日、私を迎えに行く途中でした」。私は、記事を繰る手を止めた。あのクラウンの後部座席の、あの袋。十年経っても、あの人は、まだ息子を迎えに行く途中なのだ。

それから、私はクラウンに給油するとき、「夜道、気をつけてくださいね」と声をかけるようになった。女の人は、いつも無言だった。けれど、ある夜、給油のあいだ、窓の隙間から、ほんの少しだけ、こちらを向いたような気がした。親方には言わなかったが、あの人の時間が、ほんの少しだけ、前に進んだような気がした。そう信じたかったのかもしれない。

三月の終わり、雪の夜があった。峠は、昼のうちに通行止めになっていた。二時になっても、クラウンは来なかった。二時半。三時。私はカウンターで、コーヒーを何杯も淹れて、窓の外の吹雪を眺めていた。翌朝、親方からの電話で、峠のカーブで、白いクラウンが崖下で発見されたと知った。十年前と同じ、場所だった。雪の下から、また出てきたのだ、と地元の人は言った。雪が降ると、あの人は、あの事故の晩へ戻ってしまう。この店に寄ることもできずに、あのカーブへ、まっすぐ向かってしまうのだ。

四月、私はバイトを辞めることにした。東京の学校へ戻るからだ。最後の夜、二時、白いクラウンが来た。私は、いつものように給油して、「夜道、気をつけてくださいね」と言った。それから、ひとこと、付け足した。「峠のカーブ、ガードレールが新しくなりましたよ。先週、工事が終わって」。窓の向こうで、女の人は、しばらく黙っていた。それから、かすかな声で、言った。「……そうかい」。「……ありがとうね」。私は五千円札を受け取って、急いでお釣りを返そうとした。けれど、窓はもう閉まっていた。クラウンは、ゆっくりと敷地を出て、峠の方へ消えていった。

それ以来、白いクラウンがこの店に来たという話は、親方からも聞かなかった。夏、ふとした用事で、あの峠道を通った。カーブには、新しいガードレールが、きらきらと光を反射して立っていた。その下の谷を、私はしばらく眺めた。何も見えなかった。ただ、新しい塗装の匂いが、夏の夜の空気に、かすかに混じっていた。後日、親方と電話で話した。「あの人は、やっと、家に帰れたんだな」。親方はそう言って、「お前さんがあの晩、ガードレールのことを教えてやったからだよ」と付け加えた。私は、「さあ、どうですかね」とだけ答えた。受話器の向こうで、親方が笑ったような気がした。

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