母が入院したと連絡があったのは、九月の初めだった。山あいの集落に残る実家で、ひとり暮らしをしていた母が、裏の畑で転んで足を折ったらしい。病院のベッドで、母は電話口で言った。「あんた、悪いけど、十五日までに、祠に行っておくれ。お供えを、ちゃんと替えておいて」。実家の裏手、山に入ってすぐの場所に、小さな祠がある。誰が建てたのか、いつからあるのか、村の者にももう分からない、古い祠だ。私は都会で会社員をしている。十年ぶりに、故郷の空気を吸うことになった。
実家に帰ると、家は母の手が入らないまま、少し寂れて見えた。玄関には、白い布に包まれた供え物が置いてあった。母は毎年、十五日に、祠の前で手を合わせるのを欠かさなかった。この土地には、古い言い伝えがある。「山は、二十年に一度、子を借りる」。祠の前を通りかかった子どもが、忽然と姿を消す。それは山の神様が、自分の子として連れていったのだと言われている。消えた子の家には、代わりに、白い紙に包まれた小さな護符が置かれているという。誰も確かめた者はいないが、集落の人間は、真剣に信じていた。
二十年前の夏、この山で、兄が消えた。当時七歳だった兄と、五歳だった私は、夕方の山道を歩いていた。母に言いつけられた、祠へのお供えの道すがらだった。兄は私の手を引いて、「怖がるなよ」と言った。次の瞬間、私は転んで、あごを打った。気がつくと、山道には私ひとりだけが立っていた。兄の姿は、どこにもなかった。集落中の人が山を探した。しかし、兄は見つからなかった。母は一週間、声も出せずにいた。そして、ある朝、仏壇の前に、白い紙に包まれた護符が置かれているのを見つけた。誰が置いたのか、分からない。母はそれを、ただ静かに、しまい込んだ。
翌朝、私は祠へ向かった。山道は、二十年のあいだに、ずいぶん荒れていた。草は深く、倒木が道を塞いでいる。それでも、誰かが通った跡は、確かにあった。祠の前で、私は古い供え物を下ろし、新しいおはぎと水を供えた。手を合わせる。何の変哲もない、苔むした小さな祠だった。だが、そのとき、背中に視線を感じた。振り返ると、木立の影のあたりで、何かが動いた。人の形をしていた。小さな、子どものような影。私が目をこらすと、それはするりと、木々の奥へ消えていった。
その夜、私は病院の母に電話した。母は、長い沈黙のあと、ぽつりと言った。「あんた、祠で、何か見たんか」。私は、子どもの影のことを話した。母は、さらに長く黙って、こう言った。「山の神様は、二十年に一度、子を借りる。その年が、今年や」。私は、背筋が冷たくなった。「二十年前も、その年やった。あの日、山の神様が欲しかったのは、お前の方やった」。兄は、それを知っていた。祠の前で、私が転んで泣き出したとき、兄は私を抱き起こして、言ったんだ。「代わりに、俺が行く」。そして、振り返らずに、山道を登っていった。
「兄は、あの日から、ずっと山の子や。お前の代わりに」。母の声は、震えていた。「十五年目に、お前の兄が帰ってきよった。夜中に、障子の向こうから、『代わりは、済んだか』と聞いてきた。私は答えた。『済んどらん。もう少し、待っておくれ』。それから五年、兄は、毎年、十五日の夜に、家の前に立っとる。お前の代わりが決まったら、兄は山から帰れるんやと。だが、私は、お前にそれを言えんかった。お前が行くことになるのが、怖かった」。母は、祠へのお供えが、山の神様へのものではなく、兄へのものだったと、打ち明けた。二十年のあいだ、母はひとりで、その約束を抱えて生きてきたのだ。
電話を切ったあと、私は家にじっとしていられず、集落の外れまで歩いた。公民館の灯りの下で、区長を長く務めた老人に会った。老人は、私の顔を見ると、何かを察したように言った。「お前さんが、あの家の弟さんか。……二十年ぶりやな」。私は、思い切って聞いた。「山の神様は、借りた子を、どうするんですか」。老人は、しばらく黙ってから、答えた。「返すんや。二十年で、な。だが、返ってくるのは、もう人の子やない。山の匂いのする、別のもんや。だから、昔の人は言うた。代わりを出せ、と。借りた子が帰るには、家の者が、自分の手で、代わりの子を差し出さにゃならん。それが、山の掟や」。私は、足がすくんだ。「兄は、今も、山にいるんですか」。老人は、煙草の火を、じっと見つめていた。「さあな。ただ、お前さんの母親は、二十年、一度も代わりを出さなかった。山の掟を、一番よう知っとる人やった」。私は、家に戻った。時計は、十一時を回っていた。
その夜、私は眠れずにいた。午前零時を過ぎたころ、玄関の方が、かすかに軋んだ。音を立てないように、私は障子を開けた。縁側の先、庭の隅に、立っている者がいた。子どもの背丈のまま、二十年の歳月を越えて、兄が立っていた。真っ白な顔。古い着物のような、変わり果てた姿。けれど、兄は、私を見て、微笑んだ。私の知っている、兄の笑顔だった。「久しぶりだな」。声は、風に溶けるようにかすかだった。「お前が山の子になるか、このまま俺が山の子でいるか。道は、そのふたつしかない」。私は、声を絞り出した。「兄ちゃん、帰ってこいよ。今度は、俺が行く」。兄は、首を振った。それから、ふわりと、闇に溶けた。庭には、白い紙に包まれた、小さな護符が、ひとつ、落ちていた。
明け方、私は祠へ向かった。護符を供えて、深く頭を下げた。「神様。二十年前、約束を果たせなかったのは、私の方です。兄を、返してください。代わりは、私がなります」。風が吹いた。木立がざわめいた。祠の奥から、低い、けれど確かな声がした。「ならば、お前が来い」。私は、目を閉じた。一歩、祠へ踏み出した。……そのとき、私の手を、誰かが掴んだ。冷たい、けれど、確かに温かい手だった。振り返ると、兄が立っていた。兄は、笑っていた。二十年前、山道で見せたのと同じ、あの笑顔で。「代わりは、済んだ」。そう言って、兄は、私の手を離した。祠の中から、また声がした。「約束は、果たされた。子は、返す」。
翌朝、祠の前に、小さな駒が置かれていた。二十年前、兄が消えた日、兄のポケットに入っていた木の駒だ。それは、山の神様が、兄を返してくれた証だった。母は退院した後、祠の前に長いこと手を合わせていた。私は、今も、十五日には実家に帰って、祠に供え物をする。山道の途中で、誰かに見られているような気がすることが、たまにある。けれど、もう、怖くはない。あの山には、私を守ってくれた兄が、今もいる。そう、信じている。